第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年
24.日清戦争
「京都ホテル」開業の前後は、内外の情勢はまことに慌ただしいものがありました。朝鮮半島の宗主権をめぐって対立していた日本と清国が、明治27年7月ついに戦端を開きました。
日清戦争です。陸軍は遼東半島を制圧し、海軍は黄海海戦で制海権をにぎったため、28年に入ると、清国は和平を求めてきました。3月、下関条約が成立して、遼東半島・台湾の領有などが決まりましたが、露・独・仏三国の干渉で、遼東半島を清国に返還します。
『臥薪嘗胆』という言葉が流行したのは、この時でした。5月にようやく講和が成立して、日本は3億円の賠償金を手にし、台湾を領土としました。事の是非は別にしても、極東の島国が一躍、国際舞台に躍り出て、世界の注目を浴びます。
この間に京都では、28年春に第4回内国勧業博覧会が岡崎を会場にして開かれ、未曽有の113万人もの入場者を数えました。当時の京都市の人口が約34万人とされていますから、地方からの観光客でたいへんな賑わいであったことがわかります。
もちろん、戦勝気分もあり、また賠償金によるインフレも手伝ったと思われます。もっとも外国人客が相手のホテルとしては、さすがに戦争が終わってみれば、清という大国に勝った日本という小さな国に、大きな好奇心が寄せられて、外国人の訪れが増えます。そして、古都京都へは、外国人は必ず立ち寄りました。
●外人来京稀なり
例年外人の避暑のため来京するもの多きことなるが、本年は悪疫の流行猛烈なると、且つ叡山に避暑せし者の一昨年夏期同山西塔谷にて烈風の為天幕を吹き飛ばされ、夜間山中に露宿せしに懲り、同山避暑を思い止まりしより旁々来京外人の稀になりし次第なりといふ。
<明治28年9月1日「日出新聞」>
●来京の外国人
博覧会閉会後、悪疫流行の声高きより、外国人は恐怖して京都に来るもの途絶えたる如くなりしが、昨今秋冷を催せると悪疫の殆ど跡を絶ちたるとに依り、外人の京都に来るも日に日に多きを加え、其御所、離宮の拝観を主殿寮出張所へ出願するものにても日々七八名宛てあるに至りしと。
<明治28年10月8日「日出新聞」>
●外人の来京数
去年中の外人来京数は円山也阿弥、中村楼、及び京都ホテルにて総計百七十八人、内英四十五人、露三人、仏丗人、独丗五人、和蘭人五人、米国三十八人、丁抹四人、瑞西八人、白耳義三人、端典二人、壕太利五人なり。
<明治28年12月6日「日出新聞」>
●外人の宿泊数
円山也阿弥、京都ホテル、中村楼に宿泊せし昨年中外人の数は、総計一千九百五十七人にして、一昨年に比し三百二十四人を増加したりと云ふ。
<明治29年1月26日「日出新聞」>
ここで、日清戦争後の世相を、新聞から垣間見ておきましょう。ホテルにいささか関係があるニュースですが、「吉永園」の貸別荘の広告があります。蹴上の華頂山中腹で眺望のよい地に料亭を開いた「吉永園」は、のちに「都ホテル」となりますが、明治29年の冬、次のような広告を出しています。
別荘新築貸家広告
当園内一番展望宜敷場所を選び玄関付別荘向建物数ヶ所新築中の処落成仕候間御入用の御方は至急御来園被下度候
二白 当園内其他保養室も数十ヶ所有之
且席貸料理店も有之頗る御便利に
御座候
三条蹴上ゲ粟田花頂山
吉 永 園
当園内此頃の秋景色誠に仙境に入る思ひ有
之候間陸続御来遊被下度願上候
吉 永 園 内
席かし 八景園
同 吉永亭
御料理 華 頂
<11月17日「日出」広告>
戦争や祝賀会、展示会でお酒がよく売れて品薄となったため、値上げするという記事もみられます。
日清戦争中、軍隊へ買上げ、及戦勝祝賀、尋で博覧会あり、酒の需要高大いに増したれば、各地品少にして、醸造家売惜しみの状を呈し、価格を騰貴したるに付、今回、京都酒造商及酒商の両組合協議し、銘酒一升二十五銭、上酒二十銭、並酒十八銭と改正し、従来より二銭方を値上げしたり。
<明治28年8月28日「日出新聞」>
風俗も華美を加えました。「当世流行間の洋服」という新聞記事(明治29年3月22日「日出」)では、燕尾服が45円から25円、フロックコートなら上衣だけで、30円から15円、モーニングコートは35円ないし15円などとして、それぞれ流行の仕立てを紹介しています。
「京都ホテル」の定例の会場として、毎月、時事懇談をするという京都経済協会も生まれました。また洋食を試食する会も生まれ、90人が参加したという記事もみられます。
●京都経済協会
予報の通り同会の臨時会は、一昨年十五日午後五時より京都ホテルに開き、会員の出席は新聞記者、銀行会社員、商業者、株式仲買人等二十余名にして、六時二十分、食堂に入りて食事を為し、食事終て談話室に入るや、幹事片桐正雄氏は今後の集会日及び会員等に付相談有り、毎月第三土曜日午後五時より当ホテルにおいて例会を開くこととし、会費は食事費を除き一ヶ年一円とし、二回に取集むることに協議し、
・・・中略・・・
<明治30年12月17日「日出新聞」>
●西陣洋食会
西陣地方の有志家今西兵衛、高松長四郎、小林伊之助の三氏が昨年より見出しの如き会を起し、今出川通り千本東入西洋亭を会場とし、年二回の大会を開くこととせしが、一昨年、本年の初会を催し、商業上の事を談じ、なお条約改正の準備として外人接待の方法を今より講じ置かざれば、実施後、大いに不便を感ずるならむと、接待方法の準備をなすことを相談したる後、一同散会せしが、当日会するもの九十余名。
因に云ふ、西陣亭にては之れが準備の第一着として三階の一室を改造し外人宿泊に供する由。
<明治31年2月7日「日出新聞」>
京の町に、市街電車、いわゆるチンチン電車が初めて開通しました。琵琶湖疏水を利用して蹴上に発所電が作られたのでした。明治28年2月1日、まず京都ステーションから伏見までが仮営業を行いました。続いて4月以降、木屋町通り、西洞院通り、北野天満宮まで、さらに二条木屋町から鴨川を渡って岡崎の博覧会会場から蹴上までなど、路線が拡張されました。
このため、「京都ホテル」は、三条大橋・木屋町二条などの電車のターミナルにも近く、交通事情は抜群となりました。当時の新聞広告によりますと、開業から1週間は半額とされ、料金は次のとおりでした。
○京都七条伏見京橋間 金三銭
○伏見京橋稲荷新道間 金弐銭
○京都七条稲荷新道間 金壱銭
なお鉄道は官営の東海道線のほか、民営の京都鉄道会社が明治29年、京都~園部間の工事に着工しました。完成は32年でした。
また疎水を利用するインクラインも、人や荷物の輸送に活躍しました。
鴨川運河は昨年十一月より、修繕工事の為、全線の通船を為さゞりしが、彼の墨染船溜より奈良鉄道線下を貫通する放水線改良工事は、奈良鉄道会社の負担にて本年中に竣工し、鴨川以南の修繕個所も今明日中に悉皆竣工する筈なれば、明後丗一日、市参事会員は夷川より乗船して墨染「インクライン」まで実地を検査し、四月一日より全水路を開始する予定なりと云ふ。
<明治29年5月6日「日出新聞」>
明治28年の夏はコレラが流行したため、府令をもって祇園会はじめ諸祭礼・盆踊等々が延期あるいは中止され、市中の芸能興行もさしとめられた。
酒の値上げこの翌年、明治29年には、酒税法が改正され、特に清酒と濁酒(ドブロク)が、同一酒税となったことから、東京では縄ノレンの店のストライキまで起こったという。
燕尾服明治40年ごろの京都風俗図絵によれば、フロックコートは医師、上級官吏、政治家、大学教授らが着用していたらしい。
また燕尾服着用の写真師の絵もある。一般の男性の間では、和服の上に二重まわし(インバネス、「とんび」とも呼ばれた)を着るのが大流行した。
このころの運営は、京都電気鉄道会社。単線だったため、途中で鉢合わせした電車同士が引け引かぬのケンカとなり、乗客までが加勢したとか、事故が起きぬようにと、「告知人」を先立てて走った(当時、時速8キロ前後だったという)が、この告知人自身がひかれたとかの珍談が続出。のち、大正7年、市電に買収され、名実ともに”市電”となる。
発電所蹴上発電所の発電能力は明治24年完成時で750キロワット。25年の電力使用工場1、電灯使用戸数740戸で160キロワット送電。28年から京電へ送電開始。
金三銭この頃、駄菓子屋で売られているまんじゅう1個が1銭、もなかが5厘くらい。
京都鉄道会社工事に尽力した田中源太郎は、亀岡出身で、当時、京都鉄道株式会社社長。初代京都株式取引所頭取、府会議長、衆議院、貴族院議員などをつとめた。のち、自ら拓いた京都鉄道の脱線事故で不慮の死をとげる。
鴨川運河鴨川運河、鴨東運河ともいう。第一琵琶湖疎水と鴨川の合流地点から鴨川沿いに南に下り、伏見を経て淀川につながる。全長約9キロ(明治25年起工、27年完工)。
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