第三部 大正編 ~平穏無事~ 大正初年~大正15年

35.「都ホテル」の創業

明治45年7月20日、天皇のご不例が発表されました。京都でも主だった寺院はご平癒の祈祷を行い、新京極や色街は自発的に興行を自粛するなど、ひたすらご回復を願いましたけれど30日、ついにお隠れになり、大正と改元されました。
御大葬は東京で行われましたが、御陵墓は京都の伏見桃山の地に決まり、9月14日、御霊柩を桃山にお迎えしました。引き続いて内外の貴顕が御陵の拝礼に京都を訪れましたほか、全国から参拝の団体が相次ぎましたので、京都のホテル・旅館は、その受け入れに忙殺されています。
御大礼は、必ず京都で行うことに定められていますので、御大葬を終えるとともに、京都では御大礼の準備が始まります。
ここで、大正3年に鉄道院が発行した『東亜案内』によって、当時の全国のホテル事情を見ておきます。

ホテルの数を見ますと、横浜7、東京6、軽井沢3、日光2、長崎5、雲仙8、神戸8、有馬3、京都3、あとは鎌倉、宮の下、静岡、名古屋、仙台、松島、中禅寺湖、湯本、小樽、下関、茂木、小浜、千々岩、別府、宮島、大阪、奈良、宇治山田、台北が各1で、合計64です。

この内、100人以上の収容が可能な大ホテルは、横浜の「グランドホテル」「オリエンタルパレスホテル」、東京の「帝国ホテル」、箱根の「富士屋ホテル」、日光の「金谷ホテル」、京都では「京都ホテル」「都ホテル」、神戸が「オリエンタルホテル」「トーアホテル」など9つだけです。
京都の3ホテルというのは、「京都ホテル」「都ホテル」「大仏ホテル」ですが、このうち2ホテルが100人以上の収容人員です。

「都ホテル」は、館主西村仁兵衛の積極策で「有馬ホテル」「五二会ホテル」など4つのホテルを傘下におさめ、大日本ホテル会社に衣替えをして、ゆくゆくはネットワークを広げて全国的な組織に発展させる心づもりでしたが、現実は、これと裏腹に、抱え込んだホテルがいずれも経営不振でした。
明治44年から新たに京都で「大仏ホテル」の経営を始めた一方では、「有馬」など切り捨てる結果となり、大正4年、大手出資先の日本生命保険から片岡直温を迎えましたので、同ホテルは西村仁兵衛の手を離れています。「大仏ホテル」はその際に閉鎖され、短命に終わりました。
御大礼を前に、準備の一環として京都のホテルの宿泊料金を調べていますが、特等15円、一等10円、二等8円、三等6円、四等4円50銭でした。

全国から参拝の団体

大正2年、桃山御陵が完成すると、一日の参拝者は十数万人にも及び、国鉄桃山駅前には旅館6軒、飲食店12軒、みやげもの店40軒以上が、御陵入口までの500mほどを埋めたという。

片岡直温(1859〜1934)

土佐出身の政治家、実業家。日本生命の創立者であり、後には社長となる。一方、明治25年以来、8度の選挙に当選、代議士としても活躍。
大正14年加藤高明内閣商務相、翌年若槻内閣の蔵相。昭和2年、<失言>から渡辺銀行に始まる取り付け騒ぎを引き起こし、金融恐慌を誘発した。昭和5年貴族院議員。

特等15円

この頃の15円といえば巡査の初任給、4円50銭は大工手間賃の約3日分。

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