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- 第四部 昭和前期編 ~多事多端~ 昭和初年~昭和20年
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第四部 昭和前期編 ~多事多端~ 昭和初年~昭和20年
44.株式会社「京都ホテル」
大ホテルを目指して「京都ホテル」を改装するのにも、先立つものは資金でした。それにはこれまでの個人経営から脱皮して、株式会社に改め、資本の導入をはかる必要がありました。
たまたま井上武夫と親交のあった竹上藤次郎が株式組織による資金の調達を勧めました。竹上は代議士の経験もあり、京都商工会議所の副会頭であった関係から、各地の会議所議員に呼びかけて資金を集めるという作戦をとりました。
もっとも、創立総会の株主名簿を見ますと、なるほど東京その他からの株主応募もありますが、9割までが京都の人たちですので、各地の商工会議所を持ち出したのは、計画にハクをつける程度のものであったかも知れません。
斡旋役の竹上が社長、実際の経営に当たる井上が専務となって、株式会社「京都ホテル」が発足しましたのは、昭和2年6月です。設立趣意書を見ましょう。
株式会社京都ホテル趣意書
京都ホテルは明治二十七八年の頃より井上氏の経営として貴賓紳士の御用を蒙り、
今日に至りたるも、其の家屋は稍旧式なるに依り、爰に現ホテルの敷地中最上位
の角地(河原町通御池の角、市役所東向ひ)約八百坪を劃し、鉄筋コンクリート
八階建の最新式建築と為し、入洛者各位の御便宜を計り、一つは以て国家的に、
一つは以て市繁栄の為に又一面最も確実有望なる投資事業と信じ資本家各位の
御賛成を希ふ次第である。
目論見書
一、本会社は新築落成と同時に現京都ホテルの営業を譲受け直ちに開業の出来る特点を持っています。
一、本会社は資本金百弐拾五万円全額払込弐万五千株に分ち一株の金額を金五拾円とし井上氏一族に於て約半数を所有し残り半数を従来の御得意及友人各位に持って戴くの意味にて営業権を特に無償と致しました。
一、一階を宴会場、食堂、事務所などに当て、二階以上を小宴会場及客室とし貴賓室より三、四円の小室をも設け、広く各階級の御入洛者の御便宜に供したいのであります。
一、特に日本室(畳敷)、抹茶室、日本風呂及日本料理も御用意いたします。
一、御婚儀用には神官と特約を結び、ホテル内に祭場、特別化粧室(湯殿付)を設け美容術者も特約いたしてあります。
一、御宴会、御集会等は五六百人様より十数人様までの大、中、小の食堂、家族室及待合室を備へ御茶話会等も御手軽に出来る様に致してあります。
一、グリール、バーは御定食時以外の時間にも開設いたします。
一、理髪室、談話室、図書室、婦人室、玉突場、和洋風呂、展上運動場も御座ります。
一、最上階は倶楽部、貸事務所にも使用の便宜のために直通エレベーターを特設いたしました。
起業予算
収入の部
金壱百弐拾五万円也 株金総額
支出の部
金四拾壱万円也 土地代金
金五拾万円也 建築費
金参拾万円也 家具及付帯工事
金参万五千円也 流動資金
金五千円也 創立費
計 金壱百弐拾五万円也
収支予算書
収入の部
金壱拾弐万四千八百参拾円也 室代
金拾八万参千弐百参拾円也 食堂及びグリール収入
金拾八万弐千五百円也 宴会収入
金壱万五千円也 雑収入
合計 金五拾万五千五百六拾円也
利益処分方法
金拾弐万五千円也 配当金(年一割)
金壱万円也 積立金
金壱万円也 別途積立金
金壱万五千円也 賞与金
金六千六百五拾円也 後期繰越金
合計 拾六万六千六百五拾円也
新館の設計と建設は、ホテル建設に経験の豊かな合資会社清水組が請け負いました。
同社の上席技師・小笹徳蔵が建築設計の研究のための欧米視察から帰国したばかりでしたので、「京都ホテル」の設計は帰国第1号作品となりました。
当時パリでは、しきりにスパニッシュダンスが踊られ、絵画でもベラスケスらスペインの画家が研究されてましたし、スペインの建築家がドイツ風とスペイン風が加味された新様式の建築を建てて注目されていました。
欧州ですっかりスパニッシュ党になって、アメリカに渡りますと、ここでもスパニッシュが全盛で、ちょうど映画産業の勃興期でしたから、ロサンゼルスを中心に南カリフォルニア一帯は活気に満ちていました。住宅の建設も盛んでしたが、そこで幅を利かせていたのがスパニッシュスタイルでした。南国の風景が、スパニッシュスタイルとぴったりであったのでした。
日本に直接スパニッシュ建築を持ち込むのは冒険でしたので、小笹は「京都ホテル」の設計で、全体はヨーロッパのルネッサンス風とし、細部の装飾にスパニッシュの手法をたくさん持ち込みました。小笹はその後、名古屋支店長となり、設計部門を離れましたので、スパニッシュ建築の最初で最後のものとなったのでした。
「京都ホテル」は地上7階、地下1階で、当時としては、京都市では最高の高層建築でした。大正15年2月に着工、昭和3年2月の完成です。
正面玄関を南につけ、車寄せを設けるなどヨーロッパの伝統が、古都京都にぴったりの感じでした。
洋室95、和室6で、最大180人が宿泊できました。平面図を見ますと、地下から3階までは、大食堂、宴会場、ロビーなどにあてられ、4階から上の客室部分は、東に開いた片仮名の「コ」の字型に設計されています。
時あたかも、京都は、御大典の盛儀の準備で沸き立っていました。全くの偶然でしたが、まるで御大典を見越していたかのように、「京都ホテル」は近代的なホテルとして、お目見えしました。
外国からの特派使節の宿舎として、「都ホテル」とともに期間中、全館を宮内省が借り上げます。
株式会社「京都ホテル」の役員の顔ぶれを見ますと、代表取締役社長に竹上藤次郎、代表取締役専務に井上武夫、取締役に松井信太郎、田中和一郎、古川三郎、井上勝太郎、そして監査役は松井茂信、田中盛憲となっています。
いずれも京都の人達です。井上一族が株の半分を持ちましたので、武夫と勝太郎と松井茂信の3人が役員として入りました。
しかし、竹上はホテル経営には全くの素人ですし、井上武夫としても、御大典のような晴れがましい行事に参加するのは初めての経験でした。万一にも、外国からのお客様の接待に落ち度などがあっては大変です。そこで、経験の豊かな支配人を招くことになりました。
竹上が親しくしていた「帝国ホテル」の犬丸徹三に適任者の斡旋を要請したところ、大塚常吉が派遣されてきました。
大塚は明治22年、東京の生まれです。一橋大学を卒業すると直ちに満鉄直営の「大連ヤマトホテル」に入りました。大正12年にはホテル経営の研究のためアメリカに出張を命じられ、ニューヨークのワルドフ、アストリアなどの本場のホテルで経験を積みました。帰国して「帝国ホテル」に移った新進気鋭のホテルマンでした。
井上一族のことを少し調べておきましょう。
井上万吉・喜太郎の兄弟が、「也阿弥楼」と「京都ホテル」を手中におさめ、京都のホテル業界を兄弟で独占したことは、すでに紹介したとおりです。
兄の万吉には子供がなく、郷里の稲田家から勝治を養子として迎え、妹マツの娘ハルと結婚させました。その子が勝太郎です。したがって勝太郎は万吉の孫にあたります。また「京都ホテル」の喜太郎は、安養寺の塔頭のひとつ「正阿弥」を経営していた森島家の千鶴と結婚しましたが2人の間には子供がなく、妻の弟の武夫を養嗣子にしています。したがって武夫と勝太郎は叔父と甥の間柄です。もう一人の松井は武夫の実兄です。
井上武夫は明治19年の生まれで、京都一商を卒業しますと、横浜の「グランドホテル」に入って修業しています。
喜太郎が亡くなって、「京都ホテル」に戻り事業を引き継ぎました。
株主名簿を見ますと、井上家とそのゆかりの人々の名がずらりとならびます。筆頭株主の井上武夫が1万90株、義弟の喜三郎が4500株と、子の両名が大株主で、あとは社長の竹上でさえ1000株にすぎませんでした。
ローマ建築の流れを汲んだもので、スペインに於いて661年頃から建てられた建築を言う。主に回教やゴチックの影響を受けているものが多い。
御大典昭和天皇の即位式。昭和3年11月10日に京都御所で行われた。
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