第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

6.「也阿弥」

マレーの『案内記』第3版は明治24年に出ましたが、京都のホテルに新しく「也阿弥」と「常盤ホテル」とが登場しました。「常盤ホテル」は明治21年の創業で、後に「京都ホテル」となりますので、詳しくご紹介することになります。

「也阿弥」はそれより早く、明治14年に、営業を始めました。先の『都の魁』には、1ページを使って、ページの半分に「也阿弥」の「雪の景」を描き、あと半ページに宿料と食事代とを載せています。

也阿弥ホテルの広告也阿弥ホテルの広告

絵をみますと、純和風の2階建てですから、宴会向きの割烹旅館といったところで、ホテルの感じは全くありません。ただ、屋根に掲げた看板に英語で「HOTEL」と書かれているので、辛うじて外国人も泊めたことがわかります。

部屋は10室前後であったといいますが、はじめは、部屋にはドアがなく、カーテンで仕切ったとも、また、フスマを鍵でつないだとも伝えられています。新しいことといえば、照明にはランプを使ったことでしょうか。宿料のところに「壱間貸渡し」とありますのは、現代風にいえば、御休憩というところでしょうか。

「也阿弥」があった場所は、円山公園を奥の方へ登っていった中腹の高台で、すぐ北は知恩院の境内に接しています。ここは安養寺という時宗の寺で、眼阿弥・蓮阿弥・也阿弥・左阿弥・正阿弥・重阿弥など6つの塔頭があり、徳川時代からそれぞれ旅館や料亭を営んでいました。

長崎で外国人のガイドをしていた井上万吉が、まず「也阿弥」を買い取って、ホテルを兼ねた西洋料理の店を開きました。やがて、ほかの店もつぎつぎと手を入れて、拡張してゆきます。

フランスの小説家ピエール・ロチが、明治18年に練習艦の艦長・海軍大尉として、初めて日本を訪問した時の紀行文『秋の日本見聞録』の中で、京都のホテル「也阿弥」の模様を、スケッチとともに次のように書き残しています。

也阿弥ホテルでは、食事はきわめて正確なイギリス流と決められている。ごく小さなパン切れと、真っ赤な焼き肉と、ゆでたバレイショ。……中略……

このホテルで、わたしにとってかなり心地よいひとときがある。それは昼食の後、うつらうつらとシガレットをくゆらしながら、都を見晴らすヴェランダの下に、たった一人ですわっている時である。 ……中略……

このホテルは日本風ではあるが、西洋風に経営されていて、それまでの、各様の日本食の後をうけて、半焼きのビフテキ、焼馬鈴薯、それからよい珈琲は、誠に美味であった。我々のいる建物に達するには、長い坂と石段とを登らなくてはならぬが、これが中中楽でない。部屋にはいずれも広い張出縁と、魅力に富んだ周囲があり、佳良である。
私は屋根のある一つある一間きりの小さな家を占領しているが、張出縁から小さな反り橋がこれに通じ、灌木の叢が床と同じ高さまで生え繁っている。

<ピエール・ロチ『秋の日本見聞録』>

明治20年の日出新聞の記事ですが、前年の1年間に、「也阿弥」に宿泊した外国人客の総数は765人で、前年にくらべ11人の増加であったと、つぎのように報じられています。

●外国人入京人員
京都円山也阿弥に昨年一月より十二月に至る一年間一泊以上投宿をなしたる外国人は

  • 大不列頓国(グレートブリテン)…477人
  • 仏蘭西国…59人
  • 独逸国…58人
  • 米国…132人
  • 伊太利国…3人
  • 孛国(プロイス)…1人
  • 澳太利国(オーストリア)…11人
  • 葡萄牙国(ポルトガル)…5人
  • 西班牙国(スペイン)…3人
  • 丁抹国(デンマーク)…4人
  • 瑞典国(スウェーデン)…3人
  • 和蘭国(オランダ)…3人
  • 清国…5人

計765人にて明治18年中同楼に来泊せし総人員に比すれば111人を増し尚17年中に比すれば255人を増したり、実に昨19年の如きは京都に虎列拉病の流行なくば千余人の外客は来客すべしと云へり

<明治20年1月7日 「日出新聞」>

このように、京都では最も大きなホテルであった「也阿弥」でさえ、年間の外国人の宿泊は765人にすぎなかったようですから、1日平均わずか2人です。これでは、とても採算がとれません。それでも「也阿弥」では、つぎつぎに他の宿坊を買収して施設の拡張が続きました。

結局は外国人専用のホテルではなく、西洋料理による宴会も含めて、お客の中心は日本人であったと想像されます。それかあらぬか、当時の新聞記事では、必ず「也阿弥楼」と書かれていて、「也阿弥ホテル」という表現は使われておりません。
初期の段階の「也阿弥」は、和洋兼用の料理旅館というのが実態であったと思われます。

明治14年

自由民権運動の高まりの中、明治23年に国会開設の詔書がでたのがこの年。続いて、「明治14年の政変」により、大隈重信参議罷免。翌15年には、伊藤博文が、憲法調査のために渡欧している。

ランプ

明治5年の博覧会で三条・四条・五条の東西に2灯ずつおよび知事・参事の住居のある町に2灯ずつ、計10灯のガス灯が京都にはじめてつく。また、明治17年の博覧会では都をどり会場の祇園歌舞練場で京都ではじめてアーク灯がともされた。京都の明かりは、博覧会とホテルによって進化したといえそうである。

虎列拉病

明治19年コレラの大流行で府内の患者3103人(全国で15万5923人)、 死者1095人(全国で10万8405人)。

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