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- 第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年
- 16.「常盤」の経営難
第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年
16.「常盤」の経営難
大津事件で、「常盤ホテル」は、すっかり有名になりました。ほかの旅館が羨ましがっているなどという新聞記事さえ出ました。
<日出新聞> 明治24年5月14日
●常盤の名を羨む
京都の常盤ホテルは開業早々露国皇太子殿下の御旅館となり而して今回の騒動に因り主上の行幸もあり、殿下と御対話あらせらるなど其の事の独り日本に聞ゆべしとて、他の市中の旅人宿業は羨み居るといふ。
外国人の入京数を見ますと、明治24年の1年間で、約800人にすぎません。受け入れ側は「常盤ホテル」「也阿弥楼」「中村楼」の3つですが、「中村楼」は設備も小さく、実質上は「常盤ホテル」と「也阿弥楼」と、2大ホテルの競争という形でした。地の利では、「常盤ホテル」がターミナルの三条大橋にも近く、有利でしたが、宿泊客は「也阿弥楼」の方が多いと、新聞は伝えています。室数の違いなどはわかりません。
同じホテルといっても、「常盤ホテル」が高級ホテルを売り物にしたのに対して、「也阿弥楼」は一般の外国人をねらっていたもののようです。互いにライバル意識を燃やしています。
<日出新聞> 明治24年5月19日
●ホテルの馬車備付
京都の旅宿にては従来、客人の為に馬車を備付くるもの一もあらざりしが、今度常盤ホテルが他に率先して馬車一両を備置かんと巳に東京へ注文したるより、円山の也阿弥楼も負けず劣らず二両の馬車を注文したりと云ふ。
「常盤ホテル」は、たしかに高級ホテルという評判が定着しましたが、宿泊外国人の数が、これに伴わない恨みがあって、経営の内情は憂慮すべきものがあったようです。前田又吉は方向転換を試みますが、うまくはゆきません。
<日出新聞> 明治24年8月28日
●公然の請願は聞届けられず
京都「ホテル」常盤の主人前田又吉は、先般露国皇太子殿下御一行の旅館に充てたる洋館の建築費用予算の五万円を超過した上、今日の旅客の模様にては到底此侭に維持すること甚だ困難なるにより、将来、同館を国賓の旅館に充てらるヽの思召を以て宮内省より特別に金二万円御貸下げ相成りたしとの旨を此程内大臣へ出願したる処一昨日願の趣聞届難しとの指令を付して、書面を却下されたる由。
尤も其筋にては斯く公然と出願せずに、或る手続きを以て裏面より内々願出るに於いては二、三千円位の下付金は如何ともなるべしとの内評もあるやに云ふものあり。如何にや。
明治25年に入りますと、「也阿弥楼」は正阿弥を買い取って、積極的に拡張を始めました。
<日出新聞> 明治25年1月14日
●也阿弥楼の新築
洛東円山也阿弥楼は今回、円山公園の改良と共に一代奮発を為し、正也阿弥楼を買い入れ、同楼の現在家屋は悉皆取払ひて同楼址には日本造りの家屋を新築し、従来の也阿弥楼祉には四階の西洋造家屋を新築し、各地の名石名樹を取り寄せて、広大なる庭園を築き、園内には大池に開掘して疎水運河の引水を取り入れて、日本作、西洋作の聯絡を付ける為めの長廊下を作る筈なりと云ふ。早晩、円山に一の阿房宮を見るに至らんとす。
反対に、「常盤ホテル」の方は、経営難が表面化します。
<日出新聞> 明治25年10月14日
●常盤ホテルの維持
河原町の常盤ホテルは維持法随分困難の趣にて、三井家より支出したる金額巳に四万五千円に及び終に同家の名義に切り替へ登記も済みしたるが、三井家にては之れを四万円にて売却し、貿易商の重もなる人々に於いて維持せんことを、錦光山・池田・並河の諸氏に談じ、昨今考慮中の由なるが、多分、株式組織とし、一万円を三井家にて引き受け、残り3万円を貿易商に於いて引受くることになるべしと云ふ。
このあと、前田家と三井銀行との訴訟が新聞を賑わせることになりますが、前田又吉は、その結末をみることなく、波乱の人生を閉じたのでした。
この年、第2回総選挙で、政府の露骨な選挙干渉が行われ死者25名を出す。京都では、京都商工同盟会が、京都三大問題(建都4百年記念祭、京鶴鉄道、博覧会)を議す。
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