第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

17.「又吉泉記」

前田又吉は、明治26年1月12日、ついに帰らぬ人となりました。戒名は「大功院仁徳信常居士」、64歳でした。大阪天王寺区の源聖寺に葬られています。

前田又吉の履歴については、詳しい記録が残されていません。わずかに、「神戸開港三十年史」(明治31年刊)と「神戸市史」(大正10年刊)、それに戦後のことになりますが、神戸新聞に連載された「海鳴りやまず−近代史の主役たち」(昭和52年刊)などにその名が見える程度で、あとは断片的な資料が一、二、散見されるだけです。

大阪の裕福な家に生まれて、若い頃は遊興に身を持ち崩したといいます。貧乏して兵庫の佐比江にあった米市場のあたりで、露店の煮売り屋を始めましたが、やがて小料理屋を開くようになりました。明治初年、花隈で料亭「常盤花壇」を経営します。花隈には旧三田藩主・九鬼隆義の別邸があり、お殿様が前田をヒイキにしたということです。北風正造・神田兵右衛門・藤田積中といった地元名士と交わりが始まりました。

明治6年、諏訪山に鉱泉が出るのに目をつけ、土地を借りて「常盤花壇」をここに移しました。温泉料亭です。資金は九鬼が出したといいます。同15年ごろには「常盤花壇」は東・中・西の三店に増え、いずれも身内の者に営業させたようです。自分は宇治川にも「常盤」をつくり経営にあたりました。

<神戸開港三十年史(上)>

常盤花壇は前田又吉の開業なり。

又吉は大阪の人、其家元甚だ乏しからず。壮年の頃、遊蕩に其家産を失ひ、漂泊して兵庫に来る。其頃、佐比江に米市場あり、又吉、其衣を売却して僅かに両余の資本を作り、露店煮売を以て活路とせり。

又吉に一女あり。当時兵庫の料亭あらし花壇の男と慇懃を通じ嫁す。又吉是れより応援の助力を得、遂に佐比江に小割烹店を開く。資性機慧にして奇才あり。漸く有力者の助を得て、明治元年、常盤花壇を開業し、明治6年諏訪山温泉地を関戸由義に借り資本を三田藩主より得て開業し、十年後に至ては、諏訪山東中西の三常盤楼を造営し、又宇治川常盤を開業して、孰れも神戸有名の酒楼たらしめたり。

其後、京都「ホテル」の企画に失敗せりと雖も、浪々たる一箇の破落漢より、赤手を揮ひ、神戸の又吉として知らるヽに至れる彼は、仔細に其生前の経歴を叙せば、好個の小説的快話あるなるべし。

明治15年に『又吉泉記』をつくり、「常盤花壇」の庭に石碑を建てました。撰文と書は巌谷一六です。一六は関西で最も人気の高かった書家です。その子息が童話作家・巌谷小波であることはよく知られています。原文は漢文ですが、現代訳で紹介します。

又吉泉記又吉泉記

『又吉泉記』

神戸の諏訪山に霊泉が涌いた。英国人某が、これを鉱泉として利用することをすすめたが、誰も信用しなかった。ただひとり前田又吉が、資産を注ぎ込み、荒れ地を拓いて酒楼を建て庭をつくって温泉料亭をひらいた。おかげで、人も住まなかった地が、数年のうちに、繁華な地になった。

これみな、前田又吉の功績である。この泉を又吉泉と名付けることとした。

一六居士巌谷修撰書 明治15年10月

また前田又吉は、独力で貧民救養場をつくったといいますし、西南の役の際、神戸港から九州に送り出される官軍将兵の食事を、前田が無償で引き受けたという話も伝えられています。なかなか侠気に富んだ人物であったようです。

<神戸市史>

明治十五年、兵庫有力者北風正造・神田兵右衛門・藤田積中等の斡旋により、無告の窮民を救ひ、鰥寡孤独を済ふを目的とする救恤社を設立せられしが、其社員中の一人なる前田又吉は別に三宮町に貧民救養場を起こせり。

北風正造らとの関係では、湊川付け替え工事に奔走したことが記されています。神戸の町の中央を流れる湊川は天井川でしたから、東の神戸地区と西の兵庫地区が分断されて、交通が不便であるし、毎年のように川があふれ、市民を困らせていました。

北風らは、神戸港の改修のためにも、湊川の付け替えが必要として、その工事費の補助を政府に働きかけていました。明治14年ごろ、前田は湊川の下にトンネルをうがって、東西の交通の便をはかることを提案しました。しかし、北風は、トンネルをつくれば交通の便はよくなるとしても、水害や港内の改修問題の解決にはならないし、そのために、付け替え工事が延期されるとして賛成しませんでした。
前田も北風らの主張が正しいとして、それ以来、北風の湊川付け替え運動に奔走したということです。

なお明治15年に、北風ら地元有力者が、太政官参議の伊藤博文や工部省の次官ら、知事の森岡昌純らを「常盤花壇」に招いて懇談したことが報じられています。

神戸新報 明治15年1月15日

当時兵庫の紳商、神田・藤田・北風・岩田ら四氏には、一昨日、常盤花壇に於いて伊藤参議を始め、芳川工部少輔、朝倉生野鉱山長並に本県森岡県令、柳本・篠崎両少書記官及び属官の諸氏を招待し盛んに饗応されたり。

明治15年刊行の『豪商神兵』に見開き2ページで、「諏訪山温泉 常盤楼」の挿絵が載っています。中央に「温泉」の旗を掲げ、その横に石碑がみえるのは、おそらく『又吉泉記』の石碑と思われます。

その上に神社らしい建物がありますが、諏訪神社ではないでしょうか。10軒を超える料亭が描かれていますが、左端に、ひときわ高く「常盤楼」が建ち、中央に「常盤中店」、そして右手に「常盤東店」と、なかなかの繁盛ぶりです。

いずれも諏訪山のふもとの高台で、目の下に兵庫の町並みを見下ろし、港までが一望できて、文字どおり眺望絶佳の地です。温泉街の背後にそびえる諏訪山は、明治36年に整備されて公園となり、温泉とともに市民の憩いの場となりました。

第2次世界大戦で、この一帯は空襲ですっかり焼かれ、温泉街はなくなってしまいました。現在は、かつての温泉街の中央をバス道の山本通りが東西に走り、ビル街に変身しています。そのバス道のかたわらに、辛うじて残った割烹旅館の前庭に、巌谷一六の『又吉泉記』伊藤博文の『前田又吉銅像記』と、2つの石碑が、取り残されたように建っていました。この碑は「京都ホテル」創業100年の記念事業として京都ホテルが譲り受けました。

巌谷小波

ちなみに、巌谷小波は、明治25年に日出新聞社(現在の京都新聞社)に入社している。

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