第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年

22.「京都ホテル」の開業

前田家と三井銀行、そして「也阿弥楼」との間に示談が成立して、「常盤ホテル」は「也阿弥楼」の井上万吉・喜太郎兄弟が買収に成功しました。井上喜太郎は、「常盤ホテル」の一部を改修して「京都ホテル」と名を改め、明治27年11月3日の天長節から営業再開と決めました。しかし、開業までには、なお多少の屈折が続きます。開業の日取りを11月、つぎは翌年1月に延期して、やっと営業再開にこぎつけたのは、28年の3月でした。

●京都ホテルの開業

円山也阿弥楼の買入れたる元常盤ホテルは己に修繕出来上がりたるを以て、京都ホテルと改称し、来十一月三日の天長節を卜し開業する由。
就ては当分、也阿弥楼一個の商業とし、予て計画中なる株式会社の組織成せざる場合には貿易商の重もなる人々と共同し合資会社と為さんの見込みなりと。

<明治27年10月20日「日出新聞」>

●株式会社ホテル発起

此程の紙上に記載せし如く京都貿易商池田清助、林新助等諸氏発企と成り、円山也阿弥楼の所有なる元常盤ホテルを七万円にて買受け、株式組織のホテルを新設せんとする件に付き、一昨年午後六時より花見小路万花園に於いて発起人会を開き種々協議の末、明年に対する準備として、是非とも完全なるホテルを設けざるべからずとて、愈々七万円を以て譲受け、其半額は発起人にて負担し、半額は広く株主を募集することに決。依て近日、仮り定款を作り発起申請を為す筈なるが、貿易商の過半はすでに株主はすでに株主たることを承諾し居る由。

<明治27年11月28日「日出新聞」>

●京都「ホテル」

先日来京都貿易商等が、京都「ホテル」を株主組織の会社に為さんとの計画ありしが、持主井上氏と貿易商との意見折合はず、遂に株式組織は一時見合す事となりしを以て、井上氏は、先般来着手の修築も略ぼ落成せしを以て、来る一月十五日より、、京都「ホテル」の名義にて開業し。尚ほ同日盛んなる開業式を挙行する由。

<明治27年11月28日「日出新聞」>

●京都ホテルの開業

京都ホテルは円山也阿弥楼にて買入れ、過日来修繕工事中なりしが、本館及び湯殿等は既に落成を告げたるにつき、来月三月二日には、京都、大阪、神戸、滋賀の各知事及高官、諸会社員等を一日、三日、四日は神戸、大阪、滋賀の紳士、紳商等を招きて盛んなる開業式を挙行する由なるが、当分は日本料理を為さず、単に外人のみを取扱ひ、而して日本館の方は北手へ移し、更に一館を新築する由。

<明治28年2月26日「日出新聞」>

開業をしばしば遅らせた事情をちょっと、のぞいておきましょう。

一つは、相変わらず根強い世論の《大ホテル待望論》であったと思われます。「常盤ホテル」もそのような世論に支えられて生まれたのですが、完成を見る事なく、創業者・前田又吉の死とともに資金繰りに行き詰まり、「也阿弥楼」に売り渡しました。近代的なホテルの経営は、どうしても、株主組織による資金の確保が必要と言えましょう。

ところが、「常盤ホテル」を買収した「也阿弥楼」も個人経営です。しかも、ホテルの看板はかかげても、外国人だけでは採算があわないこともあって、営業の実質は西洋料理を売り物にする割烹旅館でしたから、「常盤ホテル」を引き継いでも、前田の意志まで引き継いで、本格的にホテルをつくることは、期待できそうになかったと言えます。

そこで、「也阿弥楼」が買収を終えたあとでも、「常盤ホテル」を近代的ホテルにするため「常盤ホテル」を買い戻そうとする努力が、一部の貿易商たちによって計画されています。
しかし、折り合いがつかず、とりあえずは井上喜太郎の個人経営とし、将来、貿易商たちとの合意が成立すれば、合資会社に切り替えるとの含みを残しての開業となりました。

もうひとつの事情は、明治28年は、平安遷都1100年記念の年であり、春には第4回内国勧業博覧会が京都岡崎で開かれるほか、秋には博覧会場跡に平安神宮が創建されることになっていました。そのうえ、日清戦争の戦勝景気も加わって、内外人がどっと入洛することが予想されていたのでした。その受け皿としても、大きなホテルが是非にも欲しかったのでした。

「京都ホテル」の営業再開は遅れに遅れて、明治28年3月6日となりました。開業に先立って、3日間、関係者を招待して、盛大に開業式をおこないました。

●京都ホテルの開業式

河原町二条下る京都ホテルは円山也阿弥楼井上喜太郎氏が買得し昨年来工事修繕湯殿新築等を為し其修繕費の外に殆ど二万円を要したりとの事なるが、此程全く落成を告げたるを以て一昨日午后五時より同ホテルの開業式を挙行せり。

当時招待に応じ出席せしは、
山高博覧会事務官、一坂京都府書記官、大槻参事官、鳥取収税長、
谷井技師各属官、楠京都地方裁判所検事正、府会議員、市郡部会員、
市部会議員、府会常置委員、市参事会員、山県警務課長、各警察署長、警部、各貿易商の重もなる人々等百余名にて、
一同内揃ふや、各自に同館各室を縦覧せしめ、夫れより食堂に於て洋食の饗応あり、貿易銀行頭取能登川登氏は主人井上氏に代わり開業の趣旨を述べて挨拶を為し、中村府会議長は一同に代わりて挨拶を為し、商報会社理事片桐正雄氏は祝文を朗読し、始終音楽会の吹奏ありて、各自歓を尽くして散じたるは午后七時なりし。

因に記す、作四日は京都諸会社、銀行、同業者など招き、今五日は大阪、神戸、横浜、滋賀等の重なる人々を招待し、明六日から営業を開始する由。而して今回各室の畳、その他、装飾品等惣皆新調せしものなりといふ。

<明治28年3月5日「日出新聞」>

なお、井上喜太郎は、日本間を北手に移築して、新刊の建設を計画しました。それに伴い、大津事件で有名になったニコライ殿下のお泊まりになった日本間座敷を永久保存することを決めていますが、日本館を移す際に、南側の洋館の中に、日本座敷を移しています。

●露国皇太子治療の座敷

先年、今の露国皇帝陛下が滋賀にて後遭難の後、京都に引回し京都ホテルにてご治療遊ばされし座敷なればとて、従前の通り装飾其他共に永久保存し置く事とし、平生は同座敷へ出入りを禁ずることに為したりといふ。

<明治28年2月26日「日出新聞」>

平安神宮

平安神宮の祭神は、平安京を開いた桓武天皇。
のち平安京最後の帝となった孝明天皇をまつる。建物はかつての平安京大極殿を模したもの。設計は工学博士伊東忠太、作庭は小川治兵衛による。

明治28年

前年からの日清戦争は、この3月をもって両国の講和(下関会議)に至る。
朝鮮半島では、反日派の閔妃が暗殺され、日本の半島進出が本格化。京都では、平安遷都1100年で市中が沸き立つ。時代祭第1回もこの年から。

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