第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年
27.外資の攻勢
明治33年3月に神戸で外資系の「オリエンタルホテル」が、33年3月の臨時株主総会で、新株発行による増資で、京都に支店として新しいホテルを開設することを決めました。 このホテルは、明治20年にフランス人によって開かれ、建坪300坪、地上3階、地下1階という神戸第一の大きなホテルですが、明治30年にイギリス人が買い取って株主組織にしました。社長・役員をはじめ株主もすべて外国人という純然たる外資系ホテルでした。
●ホテル設置の計画
神戸市の「オリエンタルホテル」にては、今回、資金を増額し京都に支店を設置する由は巳に記せしが、尚ほ聞く処によれば、既に洛東大仏阿弥陀峰の麓、太閤坦の下に於て該敷地二万坪の地所を買得し、近日、右地所の開墾に着手し、洋風の旅館を建築する筈にて、当分は支店の名義となすも、追て商法の規定に依る法人組織として、本店となす計画なりと云ふ。
<明治33年4月1日「日出新聞」>
●新株募集
神戸の「オリエンタルホテル」が当地へ支店を設置することに付いて、掲記する処ありしが、同「ホテル」現在の株主は七百四十名(外国人)あり、右支店の株主の建築費に要する増資の新株は、前記株主中百二十名にて引き受けることとなりしに付き、本邦人其他よりの申込みは一切謝絶したる由。
<明治33年4月8日「日出新聞」>
「オリエンタルホテル」が目をつけたのは、豊太閤を葬った阿弥陀ケ峰の麓で、通称大仏山という1万2千坪の土地でした。8月に敷地の地ならしにかかったところ、資材の運搬には、豊公廟の参詣道を利用するのが便利とわかって、道路の使用許可を豊国会に申し出ました。
ところが、同会は、この参道の造成には、立ち退き料に3万円をかけており、工事で道路が傷むこともあるし、敷石で舗装する費用として1万円を前納してもらいたいと、交換条件を持ち出しました。
予定外の出費に、工事はたちまち休止になりました。
内貴市長の斡旋で、補修費2000円、ほかに掃除料として毎月100円という案が出されましたが、豊国会が受け入れず、明治35年にも府知事が間に入って交渉を再開していますが、これも実を結ばず、いつしか、このホテル建設は沙汰やみになっています。
「オリエンタル」側は、これは京都人の排外主義の現れと、受け取っています。日出新聞がすでに早くから、外資系ホテルの進出に警鐘を鳴らしていましたように、京都人としては、大ホテルはほしいけれど、できることなれば地元資本で建てたいというのが、本音ではなかったでしょうか。
この年、北清事変(義和団の乱)に日本も出兵。国内では、東京株式市場の大暴落、足尾鉱毒事件など起こる。京都では京都法政学校(立命館大学の前身)が開設、府立図書館も開館する。
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