第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年

29.三ホテルの競争

「京都ホテル」のスタートは明治28年でしたが、「也阿弥ホテル」が火事を起こして休業を続けている間に、「都ホテル」が33年に開業しました。もたついた「也阿弥ホテル」も34年にようやく、営業再開にこぎつけました。これで、久しぶりに京都に3つのホテルがそろい、いよいよ激しい競争が始まります。

当時の3ホテルの規模を見ておきましょう。第五回博覧会委員会が、市内のホテル・宿屋の代表を集めて、宿泊客の収容力を調べましたところ、それぞれ次のような回答を寄せました。これが明治35年8月の3ホテルの室数と収容可能な宿泊客数です。

京都ホテル 63室 120名~150名
都ホテル 43室 76名~100名
也阿弥ホテル 53室 106名~125名

また同月の外国人の来京者数を見てみますと、385名になっております。1人が平均して5~7日間の滞在とみましても、3つのホテルが均等に客を分けあったところで、経営事情はかなり厳しいものがあったと思われます。
そのようなホテル業界の裏と表を消化する連載記事『外人と京都』が、日出新聞に載りました。筆者はS・Y生となっています。
35年10月から36年正月まで、36回に及ぶ長編でした。まず取りあげた問題を掲げてみます。

総説外国人案内人取締規則 外人の発着外人の動静(上中下)
旅館管理者の苦心談(上下) 都ホテル(上下) オリエンタルホテル(上下)
外国人案内者開誘社と東洋通弁協会 矢島健次郎氏の懐旧談
ナムバーナイン 外人遊興の模様(上下) 車夫の悪弊(上中下)
注意すべきもの二三 貿易業者の三大弊 西村総左衛門商店
池田合名会社 弁天合資会社 錦光山宗兵衛商店 貿易商の二笑柄
たかしまや 結論

『外人と京都』をちょっと拾い読みしてみましょう。

まず客の出迎えですが、「外人の京都に来るには大概手紙か電報でホテルへ通知」があり2ホテルとも、七条ステーションに外国人接待員を1人ずつ派遣していました。

「京都ホテルなどは前以て通告のある客は、必ず馬車で迎接するさうだが、現今、同ホテルには馬車が六輌、馬匹が六頭あって、悉く二頭立てに出来るやうになっている。終列車で着く客などは、有蓋馬車で迎えると、非常に喜ぶさうである。」とあります。

外国人の滞在期間は、市内観光に2日間、琵琶湖也保津川下り、奈良など周辺の観光をあわせて5日ないし1週間ぐらいが多いとあります。
前年の明治34年は約4000人の外国人観光客があってうるおったようですが、これは、北清事変で中国に進駐した各国の軍人が、帰途、日本観光をしたおかげであったとのことです。

3ホテルの説明は、つぎのようになっています。

「京都ホテル」の項では、「館主井上喜太郎氏は寡黙な人で、ホテルの来遊外人数が動揺確定せざる為業務執行上非常に困難であると話しただけであった」と紹介しています。
設備は3ホテルの中で一番行き届いている代わり、進取の気象では後進のホテルに劣るのではないかとしています。
中央に三層楼の洋館があり、左の煉瓦造りと右の日本館は2階建て。客室は洋館が37、煉瓦館が30、日本館が15、計82室です。
食堂は2つで、優に150人が入れる大食堂と、プライベートルームの小食堂があります。ほかに男女別の談話室が階上と階下とにあり、女子談話室にピアノが1台。
ほかには玉突場がありました。

客室の大きなものは48畳敷きです。ドアを開くと、花鳥を描いた絹ばりの衝立があり、正面は大理石のマントルピース、その上に大きな姿見、その前に粟田焼の花瓶が一対とローソク立てが二対づつ。
中央にテーブルと椅子が4つ。ほかに安楽椅子、小卓、書き机、アームチェア、それに元禄美人画の小さな二枚折り屏風、寝台が2つ。そのかたわらに洗面台があります。さらに部屋のすみに洋箪笥が一つ。これが最上級の部屋のしつらえです。
美術品をふんだんに飾って旅情を慰めました。
宿賃は最高が7円、普通が6円から5円です。4円50銭というのもありますが、これは殆ど名目的だと書いています。

ヨーロッパタイプで、3食付きの料金です。使用人は、書記6人、小僧3人、部屋ボーイ10人、食堂ボーイ10、コック7人、雑役15人、総計51名。
「コック長は森島と呼び、中々食はせるさうである。」とあります。来客統計を見ますと、33年が2116人で、34人は2198人でした。

「也阿弥ホテル」に移ります。資本金15万円、社長は大沢善助、元の館主の井上万吉が専務ですが、副支配人の紙勇造が万事処理しています。
営業を再開したのが4月で、まだ半年にしかならず、客はまだ多くありませんが、以前は、3ホテル中、一番外国人が多かったとしています。
三層と四層の新館が2棟で営業しており、焼け残った旧館は、ちょうど修理中。客室は新館39、旧館11、計50室。客室はごく簡素で、「京都ホテル」のように、美術品で飾ることはしていません。馬車は「京都ホテル」と兼用で、間に合わせています。
書記3人、会社事務員5人、部屋ボーイ9人、食堂ボーイ7人、コック6人、雑役10人で、総計49人、コック長は坂東徳松。宿泊客を見ますと、4月242人、5月156人、6月71人、3ヶ月の合計が469人。

「都ホテル」は、一番新しいホテルだけに、「気鋭当たるべからず。拡張策には随分思い切ったこともするとの風評もある。」と紹介しています。
館主は西村仁兵衛氏、マネージャーは業界きってのやり手と評判であった浜口守介氏。本館、新館、八景館の3棟にわかれ、三層、四層の建物が爪先上がりの急斜面に建てられていました。
客室は47で、小さいけれど食堂が2つ、ほかにバーと談話室があり、八景館には見晴らしのよいサロンも設けられていました。馬車は1台、馬1頭。使用人は書記3人、部屋ボーイ6人、コック7人、湯浴掛2人、雑役6人。コック長は荻原と言って、月給が60円で、3ホテルの中では一番の高給取りでした。
食堂ボーイは若い女性ですが、これは浜口氏のアイディアで、外国人によろこばれたとか。
ただし記者は「一転して夜の部屋ボーイとなるならば・・・」と心配をあらわにしています。来客数は、34年は2053人でした。
浜口氏からは、つぎのような外国人のセックスの話などを聞き出しています。
「醜業婦が私のほうへ出入りする噂ですか。目下食堂ボーイに女子を養成しておりますので、其等の間違いではありますまいか。」と、肩すかしをしていますが、ここでは外国人の求めに応じてチョッキナを踊ると評判だったようです。
チョッキナとは芸者のお座敷ストリップのことで、横浜や神戸のホテルで流行ったということです。
「現今は私が数次苦心惨憺の末案出しる一策を行って居るので、其弊害は皆無の考へです。」というのですが、その妙案というのは、外国人が女性を世話せよと言えばたいてい祇園町に送り込むのですが、中には素人をと要求するものもありますので、その際には、ボーイと示し合わせて、あらかじめ契約してある玄人を素人に仕立てて、しかも客として呼ばせるのだそうです。
これでは費用がかさむので、結局は遊郭などへ乗り込むことになるというのでした。

明治36年は、大阪で第5回内国勧業博覧会が開かれ、4月は京都の3ホテルとも、連日の満員でした。月の初め頃は、七条駅で乗降する外国人観光客は、1日50~60人でしたが、月の半ばには200人以上となり、宿泊予約のない客とホテルの案内人との間で、しばしばもめごとが起こったりして、博覧会協会支部から、おこごととをくう有様でした。ホテル側では、さらに工夫して、40人ほど、客を収容できるようにすることを約束しています。

博覧会も終わって5月に入りますと、ようやく空き部屋が目立ちはじめたようです。
大阪税関の調査では、1月から4月までの期間に、京都で宿泊した外国人は1549人で、前年より195人多かったといいます。また、その来遊外国人が3~4の両月に京都で消費した金額は、総額107万4、5千円であったと、その内訳を次のように発表しています。

宿泊料 5万余円
付近遊覧消費金 3万余円
物品購入費 99万4~5千円
(内訳)刺繍及び織物 30万円
    銅器及び金属美術品 20万円
    七宝美術品 7万円
    陶磁器美術品 20万円
    骨董品美術品 20万円
    象眼美術品 2万4~5千円

土産物の筆頭は、刺繍と織物となっています。 京都を代表する地場産業ないし特産物としては、従来は西陣を中心とする絹織物と京友禅、それに清水焼などの陶磁器、また骨董品などが考えられていましたが、明治時代に京都で一番良く売れたのが、じつは刺繍を施した屏風や額の類いなのでした。

前記の『京都と外人』から貿易商の紹介を一部引用しておきましょう。
外国人にも読める洋数字で正札をつけて、品物に掛け値をつけない代わり、1円も値引きしないような信用できる店は、京都では、西村総左衛門商店、高島屋、池田合名会社、並川、錦光山の5つぐらいなものと、書いています。
このうち錦光山は粟田焼の専門店です。西村では、刺繍の額と屏風が主で、刺繍の衝立、ビロウド友禅、テーブル掛け、絹などが主要な商品でした。

西村総左衛門商店

・・・ 中略 ・・・ 屏風、額を拝見したが、重に図柄は風景と動物である。以前は非常に風景の売れ行きが善かったが、刺繍術の進歩につれて、動物が大いに売れ出す事となったさうだ。
栖鳳の下絵の獅子の額があるが、生々躍動する様で、殊に刺繍は動物の手の具合が現物同様に見せられる所から、却て原画よりは趣味が多いやうだ。
元来刺繍は明治に入って非常に長足の進歩をしたので、先ず世界で此位の製品を出すものは我国ばかりであらうと考へる。

<明治35年11月18日「日出新聞」>

なお、7月の新聞に、「也阿弥ホテル」の決算報告が載りましたが、1割5分の配当ができるほどの収益をあげています。
ただし、同ホテルは市有力者や貿易商らが創立したホテルであり、配当が目的ではないからと、今季は無配とし、純益から1万円を家屋などの資産償却費に組み入れたことが報じられています。

明治35年8月

日英同盟が調印され、日露関係はいよいよ波高し。満州での戦闘を想定した八甲田山の雪中行事で、197名の凍死者が出たのも、この年。
京都では京都高等工芸学校創立(のち、京都私立芸術大学に発展)。西本願寺門主大谷光瑞師による第1次大谷探検隊の出発もこの年である。

北清事変

列強による中国の侵略に憤慨した中国民衆が、独特の挙法を用いる「義和団」を結成。
1900(明治33年)ごろから反乱が起こり、後には清国軍も加わって、北京、天津の在外公館を襲った。のち、日本軍を含む列強連合軍により鎮圧。
翌年9月、講和会議成立。

宿賃は最高が7円

この頃、小学校教員の初任給が10円から13円、東京~大阪間の鉄道運賃(3等)が3円97銭。かけそば1杯2銭前後であったという。

月給が60円

当時、第一銀行員の初任給が35円程度。高等文官試験に合格した国家公務員(今ならキャリア組にあたる)の初任給でも50円だった。

総額100万4、5千円

のち、日露戦争の京都市予算が100万円前後だったという。

竹内栖鳳(1864~1942)

四条派の流れを汲む日本画家。京都青年絵画共進会を興し近代日本画の先駆者として活躍。市立絵画専門学校教諭や文展審査員を通じて後進の指導にあたり、京都画壇に大きな足跡を残す。

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