第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年
31.日露戦争
明治36年に入りますと、朝鮮半島の利害をめぐって、ロシアとの間に緊張が高まります。その4月、京都岡崎の無鄰庵で、山県有朋、伊藤博文、桂太郎、小林寿太郎らが会合し、満韓問題の解決には武力行使も辞せずとの強硬な方針を決めています。
日露戦争は時間の問題とみられ、世の中は次第に不景気になってゆきました。
京都は高級品の生産が中心であったため打撃が大きく、西陣の賃機工が2500人も失業したと伝えています。
その世直しの意味も含めてでしょうか、「京都ホテル」がクリスマス晩餐会を開いています。
まだ日本人だけのクリスマスの感じですが、年ごとに盛んになって、明治40年頃になりますと、宿泊中の外国人たちも参加して、にぎやかに行われるようになります。
●クリスマス晩餐会(京都ホテル)
一昨夜京都ホテルのクリスマス晩餐会に参会した。午後六時の招待といふのに、最早定刻になって居るのにも拘らず、待合室には見知越の二三人が雑談もし尽くして、大分睡むさうな有様であったのに一驚を吃した。
六時過頃ドヤドヤと大学の教授やお医者様などが来会して六時半食堂が開かれた▲
食堂の光景は誰かが言った通り、正月と七月とお祭りと一緒になったやうで、奈何しても会食後舞踏でもないと納まらぬ有様、僕は同業者の上戸三人に挟まれ一人照れて居たが、誰も彼も桜色になると、平生の沈黙家も駄洒落の一つも言って、誰かゞ突拍子な声で、オイ辛子の替貫を呉れと言った時から、我々のテーブルは中でも一番騒々しい所となった▲
ホテルの泊り客も二組三組傍のテーブルに来たので、彼等の見る目も奈何と僕が見兼ねて、フライを刀を添へて食ったり、カチカチ音をさせたり、高声で話をするのは止せと制止すると、西洋人は不正直だからこそこそ話が巧手だし、彼等に箸を持たせば我々がカチカチと同じ事だと、中々減らない口だ。
・・・ 中略 ・・・
<明治36年12月27日「日出新聞」>
ついに37年2月、日本海軍は仁川沖と旅順港でロシアの艦船を奇襲しました。日露戦争です。
陸軍は捧天会戦でロシアの大軍を敗退させ、海軍は日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させましたが、日本は戦費の調達に苦しみまし、ロシア側も明治38年(1905)1月に革命が起こるなどして、皇帝ニコライ2世はすっかり戦意を喪失しました。
米・仏の斡旋を渡りに舟と、日・露は9月に講和を結びます。
この皇帝は、皇太子時代に大津で一巡査に傷つけられた、あのニコライ皇太子その人です。そのような目に遭いながらも、日本に好意を持ち続けていた人ですが、皮肉なことに、その日本と戦争を余儀なくされ、その結果、やがては皇帝の座から引きずり降ろされ、1919年(大正8年)、皇帝一家は全員銃殺という数奇な運命をたどりました。
ロマノフ王朝は彼を最後に300年の歴史に幕を下ろします。
戦争がはじまると、外国人の観光が減って、貿易商も青息吐息の状態でした。
たとえば「也阿弥ホテル」の第6回決算報告にそえられた記事では、明治37年1月から6月までの同ホテルの投宿外国人は454人、延べ2257人で、これは前年同期に比べ623人の減であり、金額でも前期の3万4474円に対し、今期は2万607円減であったと報じています。
ところが戦況が日本に有利になるにつれ、一転して外国人の入京が増えました。
●来遊外人の増加に就て
近来我邦に来遊する外国人の数は著しく其数を増し、京都停車場に於ける乗降外人比較表に依りて、三十七年一月より同三月に渉る三ヶ月間の乗客七百六十人対し、本年の同期間は優に九百十四人に達し、降車客亦百五十一人を増して九百六十七人の多きに至れり。
・・・ 中略 ・・・
本年三月の如き一千七百八十七人の多数に上がりたるは、全く日露開戦依頼、皇軍が克く連戦連勝の奇功を奏しつヽあるが為め、彼等外国人をして、切に帝国に遊覧せんとの希望を惹起せしめたるにも依るべけれども、一は欧米各国に於ては、米国にあるコックスパーテの大団体を始めとし、外数種の外国漫遊会社の設立せらるヽありて、切りに加入者を募集したる結果、予てよりその希望に包まれ居たる多数の人士は第一経費の低廉なるより、第二同伴者の多数にして愉快なるより、続々其募集に応じ、既に第一先発隊は近く上海に滞在し、専ら本邦来遊中の支度中にして、其中の一部分は好便を得て、既に本邦の来遊中のものさへ、非常に多きに至れり。
これ即ち本年三月中宿泊外国人の多き一大原因と見て誤りなかるべく、尚ほ今後続々来遊者あるに至るべければ、外人を顧客とする関係者は宜しく相当の設備を要すべきも、聞く処に依れば、製産品博覧会を始め、貿易商店如き相当外人の顧客を見受くれども、物品を購買するのも殆ど稀にして、博覧会の如き、本月一日開場以来、去る十六日間に於いて五百二十名の外人入場者ありしに係らず貿易扇子商を始め、一般に売品少く、夫が為め、意外の感にうたれたるものさへありと云ふ。
<明治38年4月21日「日出新聞」>
●暑中と入京外人
例年通じて多数外人来京するは三四五の三ヶ月を以て最とし六月頃よりはたまたま渋京の外人も或は函嶺に或は日光に、又近く叡山に遠く北海道に、思ひ思ひに避暑をなし、巳を得ざる要事ある者の外、渋京若しくは新に来京する者にや、各ホテルとも著しく多数の投宿舎あり、即ち商業者は英国を最とし米国之れに次ぎ、又無職業者たる真の観光者米国夫人を以て第一とし、英国は第二位なり。
尤も波艦隊来寇の噂専らなりし当時、即ち四五月の交は皆無の姿なりしが、既に全滅して、海路も安全なりしを以て、斬くは多数外人の来京したるものならん。
・・・ 以下略 ・・・
<明治38年7月15日「日出新聞」>
文中、波艦隊とありますが、いうまでもなくロシアのバルチック艦隊です。
なお、3ホテルの宿泊者数を次のように掲げています。
都ホテル | 男145 | 女68 | 計213人 |
也阿弥ホテル | 男81 | 女24 | 計105人 |
京都ホテル | 男49 | 女23 | 計72人 |
この頃日露の緊張がいよいよ高まり、新聞、世論は開戦をとなえることしきり。
藤村操の自殺(巌頭之感)が全国の学生に衝撃を与えた。京都では、「モルガンお雪」が世間の評判に。西陣で作られた錦織りショール、絹織ショールが全国で大流行。
一方、京都市記念運動園(現在の京都市立動物園)の開館もこの年である。
無鄰庵は明治・大正の元老山県有朋の別荘として、南禅寺近くに明治29年完成。
作庭は小川治兵衛。その後京都市に寄贈され、国の名勝として一般公開されている。
この年から翌年にかけ、日本は戦争一色。戦局が動き出したのは、翌38年に入ってからで、1月旅順開城、3月奉天会戦、5月日本海海戦と続く。
与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」は明治37年。京都では二条駅が竣工。
戦費調達のための織物消費税が、西陣などの織物業者を苦しめた。
戦争による不景気と増税ははなはだしく、特に11万人もいた戦死者の遺族には厳しかった。明治38年、ポーツマス条約に反対する民衆の日比谷焼打事件、京都での講和反対市民大会も、こうした空気の中で起こる。
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