第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年

33.世界一周大観光団

明治43年は、正月早々、アメリカの世界一周大観光団を迎え入れて、幸先のよいスタートでした。
2日は先発組の330名、翌3日も後発組の330名が、それぞれ神戸から入洛して、「京都ホテル」と「都ホテル」とに分宿しました。

一行は、1万8000トンの巨船クリーブランド号で、ニューヨークから東まわりに地中海・インド洋を経て、香港から長崎に到着しました。
日本には15日間の滞在で、京都は1泊だけでした。クリーブランド号は、ニューヨークに帰り着きますと、直ちに待ち構えていた第2回の世界一周観光団を乗せて、こんどは西まわりに日本を訪れるという手回しのよさで、44年と45年との正月と4月に、定期便のように日本に立ち寄っています。

これだけ大掛かりな観光団を迎えるのは初めてとあって、関係者の歓迎ぶりはたいへんなものでしたが、この日、日出新聞も、付録を発行して、一行の動静を詳しく報じるという熱の入れようでした。
駅からホテルまで、都大路に300台の人力車が延々と連なりましたので、さしもの京スズメたちもあっけにとられたものですが両ホテルでは食事のあと、祇園の芸妓連が繰り込んで、踊りや歌を披露しますと、話には聞いていたゲイシャガールのすばらしさに、こんどは観光団がうっとりする番でした。

●米国観光団入洛

米国大観光団七百名の一団は、旧臘二十九日を以て長崎に着港し順次観光を経て、昨朝未明神戸に入港したるが、同地にて二隊に分かれ、一隊は神戸に留まり、他の一隊三百余名は昨日午前、大阪に入り、各名所を順覧の上、一等ボギー式特別列車にて午後五時十七分京都着、入京せり。
同停車場には、日米国旗を交叉し球燈を吊し、以て歓迎の意を表したるが一行の着車するや、市よりは烟花数発を打ち揚げ、市長代理加藤助役、知事代理木下高等警察課長、西村商業会会頭、市参事会員、市会議員、その他知名の実業家、貿易商、各基督教会代表者牧野牧師など数十名出迎へ、加藤助役は歓迎者を代表し、団長たるクラーク氏と握手し、歓迎者の名刺を呈し、歓迎の辞を陳べたり。
夫れより一行は、都、京都両ホテルより差廻の日米両国小国旗を交叉せる三百余台の人力車に乗り、順路、前記両ホテルに各折半して投宿せり。

尚ほ同夜ホテルにては、祇園の芸舞妓二十余名の舞踏を観覧に供する由。

<明治43年1月3日「日出新聞」>

ただ、この種の大観光団は、どちらかといえば、割り得な経費で参加できただけに、比較的低収入の人が多く、買い物は縫い取りのついた絹製品などが主で、1円から5円といった小物に限られていたということです。
手ぐすね引いて待っていた貿易商たちは思惑はずれでした。

それにひきかえ、10名ないし20名の家族的な観光団も少なくありませんでした。こちらは、裕福な人たちが中心なので、買い物は大口で、貿易商のよいお得意さんになりました。
このような大小の観光団は、欧米に流行した旅行業者の企画でおこなわれましたが、日本ではこのような旅行業者を漫遊会社と呼びました。
外国人の入洛が一番多かったのは、花見のシーズンをはさんだ3月から5月にかけてでした。外国人観光客に最も人気があったのが、チェリーダンスと呼ばれた都をどりでした。

二条離宮は東京で許可をもらっておかないと、拝観できない規定でしたが、知らずに訪れた外国人のために、主殿寮の京都出張所では、東京に電話で許可を求めてあげるなどのサービスぶりで、これまた外国人観光客には必見の京の見どころになっていました。
そのほか特に評判が良かったのが保津川下りのようです。行事としては、島原の太夫道中、葵まつり、祇園会などが喜ばれ、これを目当てに入洛する外国人も増えてきて、ホテルでは、それぞれ特設の見物席を設けるなどしてサービスしています。
祇園祭では、「京都ホテル」が寺町四条角のたばこ屋の2階、「都ホテル」が大雲院前の掛出しと、桟敷を設ける場所も毎年決まっていました。

44年に京都駅で乗降した外国人は1万5,000人で、前年にくらべ5,800人もの増加でした。

明治43年

この年、日韓併合がなされ、国内では大逆事件の検挙が始まる。京都では、嵐山~四条大宮間が開通、京阪電鉄も京阪間路線を開通させる。

1円から5円

この頃、日雇い労働者の日当が55銭程度。大工の日当が1円。蛇の目傘が1本80~90銭であった。

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