第四部 昭和前期編 ~多事多端~ 昭和初年~昭和20年
43.大ホテルへ
大正15年の4月2日、日出新聞の第1面に「株式組織の/大ホテルに/京都ホテルを」という記事が載りました。一段見出しの、あまり目立たない扱いですが、第3面には「八層楼百二十尺の/京都ホテルの偉観/東洋第一の理想的大建物を/大市庁舎と対立して現出」と、2段4行の大見出しが、目をひきます。
「京都ホテル」を経営する井上武夫が、同ホテルを資本金100万円の株式組織に改め、関西一の大ホテルを新築するという構想です。株の半分を井上一族が引き受け、残りの7割は既に東京・大阪・神戸・名古屋・横浜などの商工会議所の議員と内約済みで、残りは「京都ホテル」の得意先から優先募集する予定とあります。
「京都ホテル」は明治27年に井上喜太郎が館主となり、個人経営を続けてきました。喜太郎の死後は、養嗣子の武夫が経営を引き継ぎました。京都を代表するホテルとして、既に内外に名声も高く業績も安定しておりましたが、井上武夫は、京都市の発展に合わせて、「京都ホテル」もさらに一大飛躍を遂げる必要があることを感じていたようです。
まず第一に、京都の有識者の間には、絶えず『大ホテル』待望論があって、何かの折にふれて噴き出しました。出来れば、世論を満足させるような大ホテルにしたい思いは、ホテルマンとしては当然の夢であったことでしょう。
ただ、京都でのホテル経営には、一つ泣き所がありました。それは外国人観光客の宿泊が春のシーズンに集中して、他の季節は閑古鳥が鳴くという京都の立地条件でした。外国人観光客の中心は、世界一周の豪華客船で日本を訪問するアメリカの大観光団でしたが、神戸に入港して、京阪神を2泊3日の日程で見物するのが、お定まりのコースでした。
そのため、京都は1泊が普通で、ひどい時には日帰りと言うこともあります。その旅行団も、経済不況があると旅行者が減りますし、日本が戦争や紛争にかかわると危険を避けて寄港しなくなります。またアメリカの大統領選挙の年にも、お客さんが減りました。
このように景気変動その他で浮き沈みの激しいのがホテル経営の実態でした。そこで、井上武夫は、経営の安定化をはかるためには、外国人観光客だけに頼るのではなく、大衆料金の部屋も用意して、日本人の宿泊を増やすことをねらおうとしました。そのためにも、器を大きくしなければなりませんでした。
つぎに「京都ホテル」周辺の都市開発が進んできたという事情がありました。ホテルから河原町通りを隔てて西側にある京都市役所が、地上5階の新庁舎の建設をはじめました。これが完成しますと、「京都ホテル」が3階建てのままでは、すぐ隣だけに、比較されて見劣りすることでしょう。市役所に負けないハイカラな建物にしなくては、京都の代表的なホテルであることの自負が許しません。
しかも、大正13年から河原町通りの拡幅工事が始まりました。やがて電車が走ることになりますと、河原町通りは京都のメインストリートになることでしょう。それまでも、「京都ホテル」は、ライバルの「都ホテル」と違って都心にあり、足の便の良いことが自慢でしたが、それが電車の開通でいっそう決定的となりましょう。
15年には、四条から「京都ホテル」の前を通って丸太町通りまで拡幅が完成したのに続いて、翌年4月には電車が走るという急テンポでした。
それまでの河原町通りは、道幅が狭くて人力車ならいざしらず、自動車の通行など望むべくもありませんでした。それが今や、自動車もゆうゆうと走れますし、電車が利用できるとあって市民の利用度を高めるチャンスでありましょう。
そのためにも、新しい建物では、外国人に満足してもらえるような超一流の宿泊設備とともに、日本人のために大衆料金の部屋も用意するほか、京都市民が宴会や会合、あるいは家庭的な食事を楽しめるよう、ホテルの衣替えが望まれることになります。
昭和2年に東館が、同6年に西館が完成している。西洋風の重厚な建築様式であるが、装飾は寺院建築に見られる蓮の花と葉で統一されるなど、東洋美もうまく生かされた。
河原町通りの拡幅工事道幅の拡張によって自動車や電車が走り、人の往来も飛躍的に増えることになる。電車は、大正7年に京都市が京都電気鉄道を買収し、電気軌道を統一している。
それまで年間乗客数2000万人台だったのが、それを機に大正7年には5000万人、昭和2年には9890万人と、急激に増えた。車両定員数も市電が発足した当時は48名だったが、大正12年に採用された500型低床ボギー車は車両定員数80名となった。
「京都ホテル100年ものがたり」サイト内の内容の全部または一部を無断で複製・転載することはご遠慮ください。