第四部 昭和前期編 ~多事多端~ 昭和初年~昭和20年

50.ロータリークラブ

「京都ホテル」とロータリークラブとのご縁も、ずいぶん長くなりました。京都にもロータリークラブを作ろうと、音頭取りをしたのはのちに「京都ホテル」の社長、そして「ステーションホテル」の社長に転じた竹上藤次郎でした。
大正14年7月22日、第1回の結成準備協議会が「京都ホテル」の日本館で開かれました。集まったのは18名で、竹上の他「京都ホテル」経営者の井上武夫も参加しています。9月28日、発会式にこぎつけ、名称を京都ロータリークラブとして、事務所を「京都ホテル」内に置くことを決めました。会長には武田五一、副会長に竹上藤次郎、幹事に井上武夫が選ばれました。
シカゴの本部からも承認されて、12月24日に正式にロータリーとして、スタートしました。会員は35名でした。

大正15年、たまたま京都においでになっておられましたイギリスの皇太子殿下が、京都にロータリーがあることをお聞きになられて、前触れなしにご出席されるというハプニングもありました。
そして京都ロータリーの会員がだんだん増え、出席率でも好成績をあげ、社会活動が盛んになるのは、昭和5年から後のことでした。その年、幹事は井上に変わって、やはり「京都ホテル」の大塚常吉が担当していますが、大塚は昭和9年まで、6代の会長のもとで幹事を務め、名誉幹事の称号をいただいています。

やがて戦時色が濃くなると、ロータリーは右翼や軍部からにらまれるようになり、例会のスピーチの内容の報告を警察に求められたり、しまいには、例会に特高が臨席するなどのいやがらせをうけるようになりました。
昭和14年、遂に解散しますが、名前を水曜会と改めて、例会は従前どおり開きました。
例会は、定刻に始まり、会食の後、会員またはゲストのスピーチがあって、定刻に散会するのが決まりでしたが、戦時中は、「京都ホテル」も食事を出すのに苦労したようです。
途中暫くは、各人がお米を3合と砂糖とを持ち寄って、ホテルに預けて、食事をつくってもらったということです。

戦後、ロータリーが復活しましたが、それまで事務所を置いていた「京都ホテル」が進駐軍の接収をうけたため、暫くは転々とします。例会場と事務所が古巣の「京都ホテル」に戻ったのは、昭和27年でした。

ロータリークラブ The International Association of Rotary Clubs の略称

1909年、アメリカでポール ハリスが人間相互の友好と職業による協力を目的として創立。社会奉仕と国際親善をモットーとする国際的な社交団体として世界的に広まり、京都では大正14年12月に、「京都ロータリークラブ」が発足した。

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