第四部 昭和前期編 ~多事多端~ 昭和初年~昭和20年

55.第2次世界大戦

昭和14年9月、ドイツ軍のポーランド進入で、イギリスはドイツに宣戦布告をします。第2次世界大戦の幕開きです。16年には独ソが戦います。日本も12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲しました。

戦争遂行の為に、国民生活は大きな犠牲を強いられます。昭和15年にはすでに嗜好品など製造販売禁止を決めた七七禁令、料理など販売価格制限の九一禁令などが施行されて、旅行も難しくなっていました。
「叡山ホテル」のようなリゾートホテルは廃業させられたり、徴用されて陸海軍の病院になるなどで、休廃業したホテルもあります。しかし「京都ホテル」のような大都市の都心のホテルでは、統制経済が進むと、かえって軍部や官公吏の出張が増えたり、軍需景気で宴会が増えたりしました。外国人旅行客こそぱったり途絶えましたが、「京都ホテル」も「都ホテル」も宿泊・宴会ともに戦前をしのぐ成績をあげています。ただ、客筋はすっかり変わりました。さすがに戦争成金と呼ばれた軍需工場の社長さんなどが目立つようになりました。
なかには、浴衣がけに素足で、食堂に現れるお客さんもあって、ホテルマンを嘆かせました。
ホテルは上流の人達の利用が多く、外国の婦人ですと、夜は必ず、イブニングドレスを着飾って食堂に現れたものでした。したがってホテルでも、きちんとネクタイをしていないと、婉曲に入室をお断りしたものです。
それが戦時中には、マナーなどを知らぬ日本人が多くなったというわけです。

日本軍が南方の戦域でまだ優勢であった昭和17年に、占領地で接収した外国資本の名門ホテルを、国内の主要ホテルに経営させることになりました。
「京都ホテル」には上海の「キャセイホテル」が割り当てられ、国際観光局からは大塚常吉常務の派遣を要請してきました。続いて副支配人の熊沢正一、食堂係主任横井信雄、同清田憂蔵、料理係園田太四郎、接客係栗原益夫らが赴任しました。

国民が、大本営発表の緒戦の戦果に酔ったのも、しばらくの間でした。昭和18年には、欧州ではドイツ軍の旗色が悪く、イタリアは降伏しました。太平洋地域でも、日本はガダルカナルから撤退を余儀なくされ、19年の冬からは、アメリカのB29の空襲が始まりました。
戦争が激しくなりますと、経済統制が強化され、ホテルや旅館の宿泊代は価格統制をうけます。昭和18年、全国のホテルを5級に分けて、最高料金が決められました。1級には「京都ホテル」と「都ホテル」が入り、2級には「志賀高原温泉ホテル」、「琵琶湖ホテル」など、そして「京都ステーションホテル」は4級でした。
1級の最高料金は浴室つき1人室が12円、2人室が22円です。そして4級では浴室つき1人室6円となっていました。しかし「京都ホテル」のような超一流のホテルには、皇族の方とか、外国からの国賓のようなお客様のために特別室が用意してありますので、申請によって特別料金を決めることが出来ました。
「京都ホテル」では、5階の貴賓室2部屋は、ベッドルームの他に談話室が付随していますので、50円の特別料金を申請して認められています。また、部屋の大小によって料金が変わりますので、宿泊料金審査委員会が設けられ、ホテル・旅館ごとに料金の審査を行いました。
「京都ホテル」では、前記の貴賓室2部屋の他、各階にあった和室の大広間が1等室、その他の部屋も広さに応じて、2等から4等までの等級が決められました。

ホテルが困ったのは、食糧の確保でした。昭和14年のことでしたが、樺太川上炭山からバター100斤を買い付けています。「京都ホテル」の向かい側に島津製作所の本社がありましたが、当時、同社の常務であった鈴木庸輔氏が、よく「京都ホテル」を利用されましたのと、ロータリーの会員でもあったことから、ホテルの大塚常吉常務とも親しくしておられました。
同氏の口利きで、まだ統制品になっていなかった樺太バターの入手に便宜を計っていただいたのでした。代金は134円30銭でした。
その他の食糧も京都ではなかなか揃わなくなり、北海道に直接注文して、貨車5両で送ってもらったところ、その中の1両分くらいは腐敗していたというようなこともありました。一般家庭はすでに配給制のころ、ホテルに外食の割り当てがあって、雑炊をつくりました。1日に50食くらいしかできませんでしたので、毎日、お昼になると食堂の前に列が出来たりしました。

いよいよ戦争が激しくなったころに「京都ホテル」でお出しした料理を克明に記録して下さった方がおられます。郷土史家の田中緑紅さんです。先生は、大変詳しい日記をつけておられましたが、その中に、「京都ホテル」で食事された際のメニューが詳しく書かれており、先生の簡単な感想も添えられています。今となっては、たいへん貴重な記録ではないでしょうか。昭和19年から終戦までの「京都ホテル」のメニューです。
ご子息の「京を語る会」の田中泰彦先生のご好意で筆写させていただきました。

昭和19年 5月27日 3名

1.スープ
2.肉と野菜
3.五目めし
4.すいみつ
5.夏みかん
6.コーヒー

6月2日 5名

1.スープ
2.グジとキャベツ(牛乳でいためてある)
3.ピラフ(米に野菜・豆などを入れ、油でいためたもの)
4.いちご氷
5.ケーキ(良い)
6.コーヒー

6月13日 16名

1.パン(少量)
2.小エビ(うどん粉にまぜ油でいためたもの)
3.きゅうり
4.肉のこまぎれ
5.きゅうりとうど(味不良)
6.アイスキャンデー、コーヒー

6月24日 4名

1.スープ(玉ねぎ入り)
2.あま鯛
3.貝柱
4.白豆
5.めし
6.さんど豆、キャベツ(良い)
7.氷菓子、コーヒー

7月15日 6名

1.スープ
2.鱈(網焼き)、大根
3.かに入りめし
4.ごぼう、なす、きゅうり、とまと
5.菓子、コーヒー

7月24日 8名

1.冷たいスープ
2.メバル(網焼き)、トマト
3.カレーあわせ汁
4.かにと大豆の混ぜめし
5.冷菓、コーヒー

8月15日 5名

1.冷たいすましスープ、野菜
2.貝柱、トウガラシ、かに入りめし
3.なすびカレーかけ
4.りんご液、コーヒー

8月29日

1.スープ すまし
2.鱧とボシャ すきやき風
3.かに、大豆の混ぜめし、キャベツ
4.冷菓、代コーヒー

昭和20年2月28日

1.すましスープ
2.貝柱、野菜
3.かにと豆かす(大きい) めし
4.紅茶

3月1日

1.すましスープ
2.とり貝、大根
3.なます
4.かに
5.豆かす(大) めし

4月17日 市役所文化課招待 15名

1.すましスープ(コブ茶の味がする)
2.ほたて貝と氷菓
3.そうめんとカレーまぶし

4月19日

同上メニュー

7月21日 文化課 9名

1.スープ
2.ヒラメ ?
3.貝柱
4.キュウリ、白豆

こうして、20年8月15日、戦争は終わりました。京都は幸い戦災をまぬがれましたが、東京はもちろん、地方都市のホテルの大半が焼失しました。焼け残ったのも、横浜のホテル・ニューグランドをはじめ4ホテル、「京都ホテル」「都ホテル」「京都ステーションホテル」などが、つぎつぎに進駐軍の接収をうけました。

「京都ホテル100年ものがたり」サイト内の内容の全部または一部を無断で複製・転載することはご遠慮ください。