第五部 昭和戦後編 ~感慨無量~ 昭和21年~昭和63年

56.給与とチップ

敗戦のどさくさで、古い書類や資料などは、軍の命令ということで、ほとんど焼き尽くされました。そのため、戦前から戦争中にかけての事情はよくわからないことがあります。そこで当時の関係者から話を聞かせてもらいました。
まず給与とチップのことで、昭和3年の御大典の頃に入社した大石英一、昭和11年入社のウェートレス柳本キミの2人の思い出話です。

僕の初任給は、固定給が10円でした。中学卒で30円、大学卒なら45円から50円が相場の時に、ずいぶん少ないようですが、当時、これでも結構、何とか生活が出来た時代です。
大衆食堂で、めし、汁、おかず、おしんこ付きの定食が18銭、新京極に行けば、ビーフシチュウが5銭で食事がとれたころです。
ホテルにはチップのデバイド制があって、春秋のシーズンには、12円ぐらいにはなりました。2月、8月はがた落ちです。そこでチップをプールしてあって、シーズンオフにも、そこそこの収入になりました。これがデバイド制です。僕は昭和18年に徴用で軍需工場に行かされることになって、退社しました。

<大石英一談話>

私は昭和11年に入社しました。仕事はウエートレスで、最初はダイニングルーム、2~3ヶ月して、地下のグリルに降りました。
女性は全員着物で、会社支給のそろいの着物を着ました。着物は動きにくい上に最初のうちは、着付けに30分もかかるなど、大変手間取ったことが思い出されます。着物の柄は、部署によって違っていました。エレベーターガールだけは洋服でした。
私が入った頃の給与は5円でした。その頃デパートで勤めて30円くらいでしたか。それに比べて私たちが低いのは、チップがデバイド制になっていたからです。

<柳本キミ談話>

もっとも、腕に技術のあるシェフになると、事情は少し違ってきます。終戦時にグリルシェフであった湯本裕は、昭和3年に大塚常吉と共に「帝国ホテル」から、高給で迎えられた人ですが、月給は120円であったと語っています。大塚の方は、まもなく支配人になりましたが、月500円だったと言うことです。大塚は戦時中は上海に派遣され、敗戦で「京都ホテル」に復帰しました。その時の給与は3万円となっています。
戦後はどうでしょうか。進駐軍の接収の間は、日本政府から支給されましたが、隊長がホテル支配人と協議して査定していました。接収解除後については、当時の社長秘書の今村浦子に聞いてみました。

少し英語が出来る電話交換手と言うことで、電話局から推薦されました。初めは断ったのですが、社長秘書ということで、昭和27年に入社しました。ホテルが接収解除になって、外国人を相手に業務を開始しようというときです。営業再開の案内状は、私が書きました。その後も、南館、北館の竣工の時など都合4回、案内状を書いています。
今のように勤務時間というものはありませんでしたので、朝早くから夜遅くまで働いた印象が残っています。給与体系などはなく、職場によって固定給が違っていました。事務所やバックヤードは安いながらも、月々の収入は一定していましたが、チップの配分の多い現場では、シーズンはぐんとよく、オフはがたんと下落したのです。
チップが少ないのは、サービスが劣っているものと見なされ、もっとチップを頂戴できるようにサービスに励みなさいと、叱られたものです。
昭和30年前後は、映画の製作が盛んでした。京都には撮影所がある関係で、売れっ子の俳優さんなら、一度は「京都ホテル」に長期滞在されたのと違いますか。
撮影の関係で帰館が遅くなることもしばしばです。それで、エレベーターガールやボーイさんなどの案内係には、心付けをはずんでいました。月給が5~6000円くらいの時に、1000円のチップをポケットにねじ込んで貰っているのも、よく見かけました。
お客様から戴いたチップは、事務所とバックヤードでは基本給が90%、チップが10%となるように、また現場は基本給が60%、チップが40%となるように計算するのですが、シーズンオフのために残す分もあったりで、計算に夜半までかかったこともありました。
みなさん、現場には誇りを持っておられましたし、連帯感に結ばれていたように思います。

<今村浦子談話>

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