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第五部 昭和戦後編 ~感慨無量~ 昭和21年~昭和63年
59.料理長の思い出
「京都ホテル」が接収を受けていた当時の料理長は武沢柳之助でした。武沢は、終戦時、「帝国ホテル」からマッカーサー元帥宿舎に派遣されて、日本人コックの総責任者となっていましたが、「帝国ホテル」の推薦で「京都ホテル」の料理長になりました。
「京都ホテル」に駐留のキャプテンから「帝国ホテル」に、腕の立つ料理長を寄こすようにとの矢の催促で、武沢が推薦され、初めて京都に赴任したのでした。武沢は、大正4年に東京築地の精養軒に入社、10年後「帝国ホテル」に移り、さらに、同ホテル経営の東京会舘の料理部次長を経て、昭和16年から終戦までは「名古屋観光ホテル」で料理長を務めました。
接収時代の模様を、武沢は次のように回顧しています。
仕事は進駐軍将校や家族たちの食事です。あとは、ダンスパーティに、おつまみ程度のものを出しました。
栄養士がいて、1週間のメニューを作りました。料理と言っても、材料は1人分ずつ箱に詰めたレイションで、これは調理しなくても食べられる野戦食ですから、そのまま出した施設もあったようですが、コックの心意気としてはですね、こんな材料でも調理の仕方によっては、おいしい料理になると、いろいろ夢を描くわけです。
それで「京都ホテル」では、私がメニューを作って、みんなに調理させたものを出しましたので、たいへん喜ばれました。そんなわけで、他の施設にも呼ばれて、調理法など指導したこともありました。出しゃばりみたいな事をしたくなかったけれど、アメリカさんの言うことを聞かないと、クビですからね。
コックは17~18人いました。みんな、朝早くから夜遅くまで、よく働いてくれました。公休は月2回ぐらいしかありませんでした。進駐軍に勤めているからと言って、食糧の援助があるわけではなく、配給だけですから、時には、世間並みに買い出しなんかで食糧の補充をしました。
<武沢柳之助談話>
武沢は、ホテルの接収解除後も「京都ホテル」にとどまり、後に専務取締役にもなりましたし、退職後も調理顧問として、後進の指導に励みました。「京都ホテル」の歴代の料理長はつぎの通りです。
[戦前]高崎常吉、清田憂蔵、田中徳三郎
[戦後]武沢柳之助、篠田成夫、隠岐敬亮、山内龍夫
古くは、いずれも「帝国ホテル」かその直営の「東京会館」でシェフを務めた人たちが、招かれています。
戦後になりますと、地元で育ったシェフが現れます。隠岐敬亮は同志社の旧制中学の出で、進駐軍の大沢ハウスや「京都ホテル」の進駐軍クラブで腕をみがきました。
また、「京都ホテル」には、メインの食堂の他にも直営のレストラン「ラ メール」があり、そのシェフ井上孝雄も「京都ホテル」生え抜きです。地元の高校を卒業し、19歳で「京都ホテル」の調理部に入りました。
西洋料理の本場で腕をみがきたいと思い立ち、32歳の時、夫婦で渡仏して勉強したという異色のコースを歩んでいます。4年後の昭和52年に「京都ホテル」に戻り、56年、南フランス料理の店「ラ メール」の開店と同時にシェフとなりました。
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