第五部 昭和戦後編 ~感慨無量~ 昭和21年~昭和63年

62.設備の改善

接収解除のころの京都のホテル事情をみておきましょう。米軍の接収をうけた3つの民間ホテルに、バイヤー専用の国営「ホテルラクヨウ」をいれて4社、収容可能な人数は500人台にすぎません。このうち「ホテルラクヨウ」は、民営に切り替えると同時にアメリカ軍との契約ホテルとなり、朝鮮戦争の帰休兵専用のホテルとなりました。それも昭和30年には軍との契約が解除され、その年の12月をもって廃業となりましたので、一般ホテルとしての実績はほとんどありませんでした。

  客室数 収容人数 従業員
京都ホテル 80 131 205
都ホテル 92 165 308
京都ステーションホテル 71 108 65
ホテルラクヨウ 71 149 152
(昭和27年4月現在)

「京都ホテル」の客室数の内訳をみますと、洋室はシングル30室、ツイン49室、和室5室となっています。シングルには、シャワーやバスの付いていない部屋もまだ残っていました。業界の動向としては、戦後にオープンの「ホテルラクヨウ」が全館冷暖房付きでありましたように、冷暖房の完備が課題となっておりました。「京都ホテル」でも、営業再開と同時に客室の湯水のパイプの取り替え工事にかかっています。シーズンオフを利用して営業を続けながら改修にあたりましたので、昭和36年に完成という長期の工事になりました。まず昭和29年、1階の大食堂に最新式の冷房装置を入れました。会議室・待合・小グループの食事などにも冷房を活用しましたので、たいへん好評を博しました。

京都の夏の猛暑は、冬の底冷えとともに有名です。夏は各室に扇風機をいれますが、それではとても追いつきません。そのため、「京都ホテル」では、夏になるとドアを外して、スノコの扉に代えてきました。もちろん廊下から室内が丸見えで用心も悪いのですが、暑さをしのぐにはこれしかないというのが実情でした。たまたま昭和30年は大変な猛暑で、観光客は京都を敬遠したのか、客足がぱったり途絶えました。緊急に6階の10室に冷房装置を入れて、急場をしのいでいます。

客室の冷暖房化と平行して、昭和33年には窓サッシの取り替え工事が始まりました。「京都ホテル」は市中にあるので足の便が良いのですが、反面、自動車が増えますと、道路に面した部屋では都市騒音に悩まされることにもなります。防音には窓サッシをアルミに替えて密閉するのが効果的です。これもシーズンオフを利用しましたので、完成は昭和36年でした。

海外からの大観光団としては、昭和29年に豪華客船キャロニア号が入りました。1万ドル観光団と呼ばれるだけあって、神戸から京都まで22台のハイヤーを飛ばしてくるという豪勢さでした。この年は、昭和11年以来最高の観光客ブームといわれ、京都に宿泊の外国人観光客は1万5千人に近かったと京都市観光課が報告しています。

昭和31年秋には、アメリカのRKO映画会社のロケ隊が「京都ホテル」に3ヶ月半の長期滞在をしましたので、「京都ホテル」にとっては、下半期としては未曾有の収益をあげることができました。このような外国人観光客のブームは33年・34年と続き、宿泊客数の記録は毎年のように塗りかえられました。
一方では、高度成長政策による国内景気の上昇で、日本人のホテル利用もだんだん盛んになってきました。やがて、ホテル間の増改築競争、さらには新しいホテルの建設ラッシュを招くことになります。

昭和31年

この年の12月、日本の国際連合加盟が決定した。 京都でも高山市政によって、国際文化観光都市としての新しい出発をはかるビジョンが次々と打ち出されていき、この年、市民憲章制定、ついで世界各国の文化都市ボストン・パリ・ケルン・フィレンツェと姉妹都市を結ぶ。
また京都市交響楽団が結成され、昭和33年宝ヶ池競輪場廃止、昭和35年京都会館落成と、文化都市づくりもめざましく進んだ。

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