1888 (明治21)年 |
神戸常盤花壇の経営者・前田又吉が川端二条の地に「常盤ホテル」を開業(京都ホテルの始まり)
■このころ、外国人の多くは円山「也阿弥楼」に投宿。前年の宿泊者総数765名。 |
1889 (明治22)年 |
旧勧業場跡の払い下げ問題起こる。川島甚兵衛らの申請相次ぐ
- 10月4日 前田又吉、大阪へ赴き、日本土木会社に請負方を委ねる。
- 10月14日 初代内閣総理大臣・伊藤博文伯の尽力により、前田又吉「舎密局」(長州屋敷跡−河原町御池)の払い下げを受け、本格的洋風ホテルを建設。
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1890 (明治23)年 |
- 2月 常盤ホテルの工事、内部装飾に着手するなど進行(内部装飾は京都製にて用を足す)。琵琶湖疎水開通までに竣工すべく工事を急ぐ。
- 4月2日 常盤ホテル構内南手に玉突場・楊弓場を新設のため準備中。
- 4月14日 洋風木造3階建の常盤ホテル(客室20室)が竣工、営業を開始。招待客は京都の実業家、京都・大阪の新聞社員等40名。
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1891 (明治24)年 |
- 2月26日 京都府北垣知事は、市長の資格で市会議員を常盤ホテルに招き晩餐を饗す。
- 4月10日 伊藤博文伯、来館。
- 4月19日 ロシア皇太子一行の旅館に常盤ホテルが決定。新築工事に力を入れる。長崎宮内大臣秘書官、三宮式部次長、富小路侍従ら、相次ぎホテルを検分。
- 5月2日 常盤ホテルの新築工事落成。
- 5月10日 ロシア皇太子ニコライ親王殿下、来館。
- 5月11日 ロシア皇太子ニコライ親王殿下、大津市内にて兇徒津田三蔵に襲われ負傷(大津事件)。
- 5月19日 大津事件が起きたことによって常盤ホテルの落成式は中止となる。常盤ホテル、他の旅館・ホテルにさきがけて馬車一輛を備え置くため、東京へ注文する。
- 5月30日 明治天皇、ロシア皇太子ニコライ親王殿下を見舞うため常盤ホテルに来館。
- 10月10日 伊藤博文伯「常盤別荘」に来館。
- 10月14日 皇太后陛下、杉皇太后大夫、林皇太后宮亮、他15名等に対し常盤ホテルにおいて洋食の晩餐を賜る。
■この頃、常盤ホテルでは、宮内大臣に建設費超過により資金の貸し下げを願い却下されている(経営不振のきざし)。 |
1892 (明治25)年 |
- 1月 円山「也阿弥楼」が「正阿弥楼」を買い入れ、拡張に乗り出す。
- 1月20日 スペイン内閣書記官パブローハール氏入洛、来館。
- 2月4日 九鬼副総裁、博覧関係の人々10数名に対し常盤ホテルにおいて面接示諭する。
- 4月13日 イタリアの法律博士パテルノストロ氏、令閨子息を伴い来館。
- 9月1日 顧清国領事、来館。
- 9月8日 ロシアの理学博士エ・エス・クケスノー氏、来館。
- 10月 経営不振表面化。名義を三井家に書き替えられる。
■この夏、避暑のため投宿の外国人客177名 1位−也阿弥楼 2位−常盤ホテル
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1893 (明治26)年 |
- 1月 前田又吉死去(64歳)。経営は娘ハナ、婿の常蔵に移る。
- 3月22日 フランス公使官一等書記官コテン・ド・クランシス氏他1名、来館。
- 6月19日 千田京都府知事、市参事会員及び市会議員諸氏を常盤ホテルに招待し、晩餐会を開く
- 12月7日 北白川宮殿下、来館
■この年も、数多くの晩餐会などが行われ、高級ホテルの信用は落ちていない様子。
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1894 (明治27)年 |
- 3月 常盤ホテルの紛議が泥沼化。ホテル側からは財産差し押さえたが休業は事実無根との広告がなされ、三井銀行は貸付金の合計を6万2千円であると公表。東京・横浜のホテル業者、地元貿易商ら入れ乱れての騒動。
- 4月~7月 常盤ホテルの騒動続き、差し押さえをめぐり三井銀行と訴訟合戦に及ぶ。
- 8月 京都也阿弥ホテル経営者の井上万吉氏の実弟井上喜太郎は、ホテル業の将来性を明察し、苦境にあった常盤ホテルを5万円で買い取り、名称を「京都ホテル」と改める。
当初開業は11月とされるが延期。
■この頃、京都ホテルを株式会社にすべしとの議論が相次ぐ。
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1895 (明治28)年 |
- 1月 京都ホテルを株式組織にすることについて持主の井上兄弟は不同意。やがて沙汰止みとなる。
- 2月26日 ロシア皇太子の宿泊室を永久保存することに決定。開業広告《3月6日より西洋料理開業仕候間此旨公告仕候収向》を出す。
- 3月3日 京都ホテル開業。開業式の主な出席者は100余名にのぼる。
- 4月 内国勧業博が開かれ、100万人を超える入場者でにぎわう。
- 5月28日 閑院宮載仁親王殿下が野村大将とともに入洛。京都ホテルにて参候の各将校と面接される。
- 12月8日 華頂宮博恭王殿下、来館。
■この年、11月中の外国人来客数、也阿弥楼・中村楼・京都ホテルを合わせて180人に及ぶと発表。
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1896 (明治29)年 |
- 1月7日 ロシア海軍中将アレキセップ、同大尉カンワイフ、同軍医カノローの3氏、来館。
- 1月10日 山階宮菊麿王殿下、来館。
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1897 (明治30)年 |
- 1月22日 能久親王大葬参列の各大使の旅館として候補にあがり、下検分を受け決定。
- 2月1日 来日の朝鮮特派大使を神戸で出迎えた井上大喪使、同氏他随行員を案内して京都ホテルに入る。親王大葬、各国大使参列。
- 2月28日 山階若宮、来館。
- 6月5日 特命全権公使ウィーテンブルック伯、従者1名とともに来館。
- 6月22日 フランス東洋艦隊司令長官、来館。
- 7月2日 アメリカ新任公使が前公使とともに来館。1泊後、3日同道し参内皇后陛下に拝謁
- 8月14日 山県伯、京都ホテルに宿泊中の土方宮相を訪ねて談話する。
- 8月17日 土方宮内大臣、山田京都府知事・山田書記官他7、8名を京都ホテルに招待し、立食の宴を開く。
- 10月11日 メキシコ公使館付武官他1名来館
- 12月15日 京都ホテルでの時事懇談会、京都経済協会第1回総会。
■この年、内外の公使高官の宿泊相次ぐ。京都ホテル滞在中の朝鮮大使、滞在期間中のもてなしの厚かったことを喜ぶ。
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1898 (明治31)年 |
- 2月10日 京都ホテルにおいて慶應義塾懇話会開催する。
- 3月 弁天合資会社設立(京都ホテル・也阿弥楼などが出資して貿易商、通詞、骨董商らタイアップ)。
- 3月19日 京都ホテルにおいて京都経済協会例会を開催。
- 4月25日 華頂宮博恭王殿下、来館。
- 4月27日 青木新任京都府書記官及び山田新任知事の送迎会が午後京都ホテルにて開かれる。
- 4月29日 山階宮菊麿王殿下、朝、御文宮御墓所を参拝後、来館。ロシアのキリル親王殿下、来館。
- 10月24日 イタリア皇姪チュラン殿下、随員を従えて来館。
- 12月27日 内海知事、京都ホテルに府庁高等官及び各課長を招いて、晩餐会を催す。
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1899 (明治32)年 |
- 1月15日 ベレスフォード卿、来館。
- 1月23日 同志社校友会の在京の同志社校友40余名、京都ホテルに会し同社員総辞職事件の善後策を協議する。
- 3月25日 円山公園の也阿弥楼火災。1棟を残して全焼したため、宿泊客を京都ホテルが受け入れる。
- 7月 也阿弥楼、ホテル建設地の借用年限延長願うが、市は難色を示す。
- 9月 井上万吉、自らホテル建設許可出願。
- 10月7日 万吉のホテル建設出願不許可となる。
■日出新聞ら、いっせいに也阿弥楼批判の論調。市参事会はあるべきホテルの内容を検討・提示。
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1900 (明治33)年 |
- 2月10日 臨時土木委員会調査報告。内貴市長、大沢臨時土木委員長ら市参議会員・市会議員等を京都ホテルに招いて報告。
- 3月 神戸のオリエンタルホテルが京都進出を決定。東山に用地を買収。
- 4月11日 京都ホテルに滞在中のフランス貴族アメデート・ド・クロクケリー氏、二条離宮を拝観。
- 4月24日 オーストリア控訴院判事オットクラフ氏、世界漫遊の途上入洛し、来館。
- 6月7日 二大工事問題について内貴市長、平安茶話会に属する市会議員を京都ホテルに招いて、道路下水問題について尋ねる。
- 8月 オリエンタルホテルの京都支店工事休止。都ホテルの開業。(社主・西村仁兵衛氏)
- 8月14日 井上喜太郎、京都市に下水工事のための500円の寄付願い出、許可される。
- 9月 井上万吉ら、也阿弥ホテル建築を再度請願、許可される。
- 11月23日 京都ホテルにおいて関西商業会議所連合会開会打ち合わせする。京都学士会、京都ホテルにおいて秋季大会と岩村法学士の帰朝歓迎会を兼ねて開催。
- 12月16日 内貴市長、府会議員を京都ホテルに招待し、晩餐会を催す。
- 12月 都ホテル、株式会社組織に改める。
■この年、京都ホテルの宿泊者総数は2,116名
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<1888-1900>
■世相
おそるおそるの開国から、富国強兵への道を歩む日本。文明開化から藩閥反対、自由民権と国内は右に左に揺れるが、それでも進歩への明るい信頼は大方の人に共通していた様子。対外的には条約改正が大問題になり、井上外交(鹿鳴館時代)、大隈外交など、しばしば国民の憤激をかう。
日本とは何かを、多くの人々が真剣に考えていた時代であり、同時に欧米へのあこがれがきらきらと輝いていた時代。「洋行」という言葉がまぶしかった。
■流行語
- 改良
- 言文一致
- …的
- ヤッツケロ
- 恋愛
- オッペケペ節
- ドウスル連
- アイス(高利貸のこと)
- ストライキ
- ハネムーン
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