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- 第五部 昭和戦後編 ~感慨無量~ 昭和21年~昭和63年
- 60.バーテンダーの思い出
第五部 昭和戦後編 ~感慨無量~ 昭和21年~昭和63年
60.バーテンダーの思い出
戦前と戦後を通じて、「京都ホテル」には、名バーテンダーが相次ぎました。とくに戦後は、東京その他からも、「京都ホテル」のバー部門の見学にきたほどで、その伝統はいまにも伝わっています。その思い出を、大正時代は秋田清六に、戦後は野口粂夫に語ってもらいましょう。
秋田は明治43年に13歳で「京都ホテル」に丁稚奉公してバーテンダーとなり、18歳で「帝国ホテル」に移りました。日本のバーテンダーの草分けともいえる人です。その思い出話から「京都ホテル」の大正時代のバーについて紹介します。
京都に『萬養軒』という有名なフランス料理店があります。創業者は伊谷市郎兵衛という人で、この方は明治30年代にアメリカに渡り、帰国後、京都ホテルの副総支配人を務めてらした。その伊谷さんが私の家の親戚筋にあたるものですからそのツテで私は京都ホテルに入ったわけなんです。
私が配属されたのはバー部門でした。当時、京都にはバーはおろかビヤホールすらなかったと思っていいでしょう。京都ホテルのバーは、結構大きかったと思います。カウンターの外側には、ビリヤード台が置かれていました。3つ玉の英国製ポケット台です。
バーのカウンターには椅子がなく、立ち飲みです。当時、淑女はバーに立ち入らないのがマナーで、男だけの世界でした。よく飲まれていたのはウィスキーでした。サービスの仕方は今とちがって、注文がくると、バーテンダーはまず、空のグラスとボトルとを客の前におきます。お客が自分の好きなだけ、ウィスキーをグラスに注ぎ、その上でバーテンダーが炭酸なり水を注ぎたしました。氷を入れたりしたら、どやされました。英国人は氷は冷やすもので、飲むものではないと考えていたのですね。氷を入れるようになったのは、第2次大戦後、アメリカ式のスタイルが入ってきたものです。
チーフが1人と、あと2人ぐらいの青年がいて、その下に私ら子供が2人ぐらい。だいたいいつも5人ぐらいのスタッフでやっていました。私らは詰襟の白いバーコートに黒いズボンっていうスタイル。チーフは蝶ネクタイでした。
営業時間は昼前ぐらいから夜の11時ごろまででした。といっても掃除もしなくちゃならない。真鍮みがき、フロアのワックス塗り、冬だったらストーブの石炭運び、だから朝8時ぐらいから、自分の体であって、自分の体じゃない。
給料は月1円50銭。ゴールデンバットが1箱5銭のころです。ほかにチップがありました。バーや食堂ごとに、チップひとまとめにしておき、上の人が割り振ってくれるんです。
京都ホテルの近くに、今の皇后陛下のお父さまにあたる久邇宮様のお屋敷がありまして、月に何度かホテルに食事にいらっしゃる。その毎月のお勘定を頂戴にあがる役目を仰せつかっていました。それで恐る恐る久邇宮邸におうかがいすると、12、3歳のお嬢さまが庭でまりつきをしていたり、なにか草むしりをしていらっしゃった。そのお嬢さまが、皇后陛下のお若いころのお姿だったんですよ。こんな思い出もあります。
<「BACCHUS」Vol.6,1988>
つぎは昭和30年代にとびます。戦争で焼けだされ、東京から着のみ着のままで京都についたという野口粂夫の物語です。新聞のボーイ募集の広告に応募して23年入社しました。数年たってベルボーイからバーに移ったそうです。
南館はまだ出来ていない頃でした。バーは本館の地下にありました。その頃のバーは立派なもので、床なども朝鮮タイルの素晴らしいものが敷き詰めてありました。バーの責任者は那田福太郎さんという方でした。ホテル協会の中でも一、二を争うほど、カクテルつくりの名手でした。遠いところから、那田さんの作ったカクテルを飲むために来られたお客様もかなりありました。那田さんの指導で、なんとかカクテルをつくれるようになり、那田さんから太鼓判を押していただくことができました。全国的にみても、京都ホテルのバーのカクテルは非常にレベルが高いとされ「ニューオータニ」のチーフの方も見学に見えています。
私を指名して、カクテルを飲みにこられる方もあるようになりました。撮影の関係で長期に逗留しておられた映画俳優の石原裕次郎さんは、飲みっぷりが豪快で、ウィスキーをボトルごとラッパ飲みしていました。漫才師の南都雄二さんも常連の1人でしたね。
その後パーラの責任者になって感じたのですが、コーヒーなども同じで、マティニをつくるというのは、気持ちが左右するものです。不愉快な気分の時には、けっして良いものはつくれません。つまり心です。パーラは、私の後、2~3年で閉鎖になりましたが、コーヒーひとつでも、いろいろ工夫してみました。
そのころ、舞台俳優の水谷八重子さんがお見えになると、私は黙って、お好みのコーヒーをさっとお出ししました。それがなんと、玉露入りのコーヒーなんです。水谷さんの大好物でしたね。そのほか、コーヒーに卵を入れましたら、精がつくと喜んでくださった方もおられますし、グラスにバラの花びらを入れ、コーヒーを注ぐと、花びらが浮いて良い香りがします。またアラビアンコーヒーといって角砂糖にブランデーをしませて出すメニューも作りました。450円と、そとよりは値が張りましたが、デパートや専門店の展示会などの時には、かなりの売上になりました。それから、京都外国語大学総長の森田嘉一先生は、ペパーミント入りのシャーベットがたいへんお好きで、ホテルに来られると真っ先にパーラに見えられて、注文されました。
<野口粂夫談話>
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