第五部 昭和戦後編 ~感慨無量~ 昭和21年~昭和63年

58.接収その後

進駐軍の接収を受けていた間の「京都ホテル」について、関係者に聞いてみましょう。まず、支配人であった若山麓からの聞き書きです。

私は大東亜戦争中、上海の「シアンホテル」で代表取締役をしていました。上海では、「キャセイホテル」に派遣されていた大塚常吉とは一緒でしたし、「京都ホテル」の経営に関係した桂城太郎・犬丸徹三・大塚常吉らは、「帝国ホテル」時代の同窓生です。
終戦になって、大塚さんより一足先に帰国しましたが、桂城さんが「京都ホテル」の常務をしておられて、「ホテルは近く進駐軍に接収されると思うが、あなたは英語が出来るので、ぜひ来て欲しい」と勧められ、支配人という資格で入社しました。

私の仕事は、駐留の隊長および補佐との連絡、打ち合わせ、進駐軍宿舎としてのホテルの運営、従業員管理などでした。
勤務は常駐で、5階の日本間を与えられました。大阪の自宅には週1度戻りましたので、単身赴任の形で、仕事をしました。

部屋数82に対し従業員は80数名でした。給料は全部、日本政府がまかないましたが、隊長のサインで査定をして支給されました。
10段階ぐらいに分かれていて、私は上のランクで、食事・宿舎付きの上、プラスアルファつきの待遇で満足できるものでした。ボーイやウエートレスの募集をしたところ、10人ぐらいの採用に800人もの申し込みがありました。

「京都ホテル」では、従前からウエートレスは、着物姿で勤務していましたが、やはり日本的に風情があって良かろうというので、そろいの着物を作って支給しました。ボーイは4人1組で、朝7時から夕方4時まで、2時から夜9時まで、9時から翌朝7時までの3部制でした。

<若山麓談話>

昭和21年に応募して採用された奥田政雄は、ボーイ修業の難しさを、次のように語っています。奥田は、皇太子殿下ご夫妻が「志賀高原ホテル」にお見えになられました際、美智子妃殿下のサービスを担当しています。

最初は、食器係でした。ここで辛抱できないと、どこでも勤まらないといって雇われました。間もなく食堂に欠員が出来てボーイとなりました。次はパントリーで、朝早く来て、コーヒーを沸かしました。

毎週土曜日にダンスパーティがありましたが、一番思い出に残っているのは、通路の狭い場所にカップや皿が積み重ねてあり、それが肩に当たって割れてしまったことです。
そこに森島さんが出勤されて「えらいことをやってくれた」と言いながら、館内いたるところから皿を集めて下さった。
しかし若山支配人は罰することなく許してくれました。そのうち接収解除で全員解雇となり、しばらく自宅待機でぶらぶらしました。再雇用となりましたが、オープンしても暫くは、客の大部分は兵隊とパンパンでした。

ボーイのサービスも大変難しいもので、まず、つま先で歩きます。手が汚れてはいけません。料理の皿を出すときは、姿勢がピンとしていなくてはなりません。お皿を引くときのタイミングも難しいものです。洋食のマナーを心得たお客さんには、へまをすると、直ぐ分かってしまいます。主任に、これでよろしいと言われるまでに、3年はかかります。下手なことをやりますと、先輩に顔がゆがむほどたたかれました。悔しかったら、一人前になれと言われたものです。

<奥田政雄談話>

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